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日本で最初の病院マッサージ師 ウィキペディアから
富岡 兵吉(とみおか へいきち、明治2年3月3日(1869年4月14日) - 大正15年(1926年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師[1]として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。
明治2年(1869年)3月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる[1]。3~4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる[1]。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった[1]。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う[1]。按摩をした旅人から東京盲唖学校のことを聞き、そこでの就学を決意する[要出典]。1888年(明治21年)10月に東京盲唖学校に入学したが[1]、このころまでには完全失明していた。1889年(明治22年)3月に東京盲唖学校按摩科を卒業し、さらに鍼治科に学ぶ[1]。1891年(明治24年)3月に東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で初めてのマッサージ師として勤務する[1]。1895年(明治28年)3月に西山なおと結婚して[要出典]、その後2男2女を得た[1]。1898年(明治31年)、勤務先を山田病院に替える[1]。1912年(明治45年)に東京盲学校(東京盲唖学校を盲部門と聾唖部門に分離した盲教育部門。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の嘱託になり、警視庁鍼灸按摩試験委員、文部省盲教育講習会の講師を務める[1]。1913年(大正2年)に東京盲学校訓導になり、三宅秀・大沢岳太郎・寺田高堂とともに文部省経穴調査委員になる[1]。1916年(大正5年)東京盲学校教諭[1]。1917年(大正6年)に著書『日本按摩術』を刊行する[1]。1920年(大正9年)、東京盲学校の同窓会理事長になる[1]。1921年(大正10年)に点字著書『点字存稿集』を出版する[1]。1923年(大正12年)関東大震災で自宅が全焼したが、同窓会会員の罹災救護に励む[1]。1926年(大正15年)2月18日に肋膜炎のために[要出典]逝去した。57歳であった[1]。1938年(昭和13年)2月13日には、東京盲学校講堂で、奥村三策先生二十七回忌、富岡兵吉先生三回忌の追悼式が行われ、かつて教師として教え子に影響を与えた2人の事跡が偲ばれた。
富岡平吉の生地は、沼田市の東十数キロにあたり、今はダムに沈んでいる。上野駅から高崎駅まで汽車が開通したのは1884年(明治17年)であり、これが渋川駅まで開通したのは1921年(大正10年)であった。したがって、富岡平吉が盲唖学校へ行くためには、居住地から高崎駅まで40kmほどを歩く必要があった。現在では、視覚障害者の学習や読書において不可欠な点字であるが、ようやく、富岡兵吉入学の前年1890年11月に、石川倉次考案の日本点字の採用が決められたばかりであった。したがって、まだ点字本はなく、口伝による学習が中心だった。
1974年(明治7年)に医師に関する制度が敷かれたが、鍼・灸・按摩は医療に入れられず、民間療法に転落させられた。しかし、マッサージ治療の考え方は西洋の医学にもあったので、マッサージの効果と必要については、理解されていた。そこで、盲唖学校に「マッサージをできる者が欲しい」という申入れがあった。マッサージについては、鍼按の初代教諭だった奥村三策が、ドイツのマッサージ書を訳してもらって教えていたが、まだ十分な知識と訓練が行われていなかった。しかし、校長小西信八と、奥村三策は相談の上、富岡平吉を推薦することとし、富岡もこれを受け入れて、日本初の病院マッサージ師が帝大病院に誕生することとなった。
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