宮脇 愛子(みやわき あいこ、1929年9月20日 - 2014年8月20日)は、日本彫刻家。本名・磯崎愛子。旧姓・荒木。夫は建築家磯崎新

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宮脇愛子

経歴

静岡県出身。熱海の資産家(商家[1])の一人娘として生まれ、幼少期より病弱のため戦時中も自宅療養し、丈夫になるようにと貴子、幹子と改名を繰り返した[2]

1945年に広津和郎が近所に転居して以降、家族ぐるみの交流が始まる[3][4]。1946年に小田原高等女学校(現、神奈川県立小田原高等学校)卒業後、日本女子大学文学部史学科へ入学[2]東京大学西洋史学科の学生だった宮脇俊三との交際が始まり、俊三を広津に紹介する[1]。在学中に俊三と結婚し(1960年に別居し1965年離婚)、1952年に大学卒業[2][1]。俊三はその後中央公論社の編集者となり、広津を担当した[1]

1953年文化学院美術科に学び[5]、夫の実姉で画家の神谷信子を介して知り合った画家の阿部展也(阿部芳文)や齋藤義重に師事した。1957年に米国へ短期留学して絵を学び、1959年に東京で初個展を開催後渡欧、瀧口修造の助言によりミラノに落ち着き、1961年に同地で個展開催[3][2]。パリ、ニューヨーク滞在を経て1966年に帰国し、銀座で開催した個展で2番目の夫となる建築家磯崎新と知り合う[2]。1972年に磯崎と再婚するが[2]、宮脇姓の頃に彫刻家として成功したため、俊三との離婚・再婚後も宮脇姓で活動した(外部リンクのインタヴュー参照)。

1960年代後半には、主に真鍮のパイプを使った彫刻作品を制作した。積み重ねたパイプの後ろから来る光によって、真鍮に含まれるの色が反映する微妙な効果が生み出される作品。その後ワイヤを使った流れるような曲線を表現した「うつろい」の世界を生み出した。グッゲンハイム美術館で受賞。マン・レイ北杜夫(前夫宮脇俊三の友人でもある)らと親交があった。

1998年には、個展『はじめもなく終わりもない 宮脇愛子 彫刻家の軌跡』を催した。(神奈川県立近代美術館

2014年8月20日、膵臓癌のため横浜市青葉区の病院で死去[6]。84歳没。

作品

関連項目

脚注

外部リンク

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