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山口県立山口高等学校、早稲田大学卒業[1]。早稲田大学ア式蹴球部に所属し、第27回1978年インカレ優勝などに貢献し、全日本大学選抜や日本B代表などに選出されている[1]。
大学を卒業後、山口に帰郷し高校教員となり、南陽工業高校、小野田高校、そして母校である山口高校で教鞭をとりながら[2]各高校のサッカー部監督を務めた[1]。一方で中国サッカーリーグ所属の山口サッカー教員団(現レノファ山口FC)に入団[1]。1980年に中国リーグ得点王・1981年にアシスト王・1982年に得点王と3つタイトルを獲得した[1]。現役引退後は、山口県サッカー協会の要職を歴任し、常任理事や技術委員長として活躍した[3]。
2006年、将来の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りを目指して山口教員をクラブチーム化したレノファ山口FCの発足に尽力し、その初代監督に就任した[1]。2008年中国リーグでチームを初優勝に導き同年の地決において初のグループリーグ突破するなどの成績を残したが[3]、JFL昇格はならなかった。
2010年、監督を退任しゼネラルマネージャー (GM) ・総監督に就任[1]。この年、「(サッカークラブの運営は)片手間ではできない」と教員を辞め、レノファの運営に専念する[2]。維新百年記念公園近くの自宅敷地内にあったアパートの2階をレノファのクラブ事務所に改装し、遠征時にはマイクロバスのハンドルを握るなど、レノファの強化に全力を尽くした[2]が、GM在任中のJFL昇格は果たせなかった。また2011年に地元で開催された第66回国民体育大会に向けて強化し[4]、大会では山口県成年男子監督についたが[5]、結果を残せなかった。
2012年4月に悪性腫瘍の存在が判明[6]。闘病生活に入り、シーズン終了後にこの年監督を務めた河村孝にGM職を譲り、退任[1][3]。闘病に専念するが、2013年6月9日に肺癌により死去[3]。56歳没。レノファはこの年第49回全国社会人サッカー選手権大会を制し、悲願のJFL昇格を決めた。
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