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宍戸 就附(ししど なりちか)は、江戸時代前期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。宍戸家第17代当主。父は熊谷元実。母は杉重政の娘。祖父は宍戸広匡。養父は宍戸就尚。正室は宍戸就尚の娘。弟に熊谷就実、宍戸就延、宍戸隆将。通称は忠三郎、雅楽、土佐。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永12年5月15日(1635年6月29日) |
死没 | 延宝4年12月24日(1677年1月17日) |
別名 | 通称:忠三郎 |
戒名 | 立徳院殿外翁宗格 |
墓所 | 大寧寺(山口県長門市深川湯本) |
官位 | 雅楽頭、土佐守 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 桓武平氏国香流熊谷氏→藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏 |
父母 |
父:熊谷元実、母:杉重政の娘 養父:宍戸就尚 |
兄弟 | 就附、熊谷就実、就延、隆将 |
妻 | 正室:宍戸就尚の娘 |
子 |
海賊(夭折)、女(毛利定道室)、 女(益田就高室)、女(毛利広矩正室)、 千代松(夭折)、女(夭折)、 女(毛利広矩継室、毛利就久室)、 於勢与(井原広高室) 養子:隆将(実弟)、女(神村就久の娘、口羽就通室) |
寛永12年(1635年)5月15日、毛利氏家臣・熊谷元実の三男として生まれる[1]。
寛永17年(1640年)8月23日、伯父・宍戸就尚が嫡男不在のまま死去したため、就尚の娘と婚姻して婿養子としてその家督を相続し、三丘領主、長州藩一門家老となり、藩主毛利秀就、綱広の二代に仕えた[1]。
延宝3年(1675年)、家計逼迫により、藩主綱広に旅役免除を願い出て許される。
延宝4年(1676年)12月24日に嫡男不在のまま萩の宍戸家屋敷において死去[1]。享年42[1]。長門国深川の大寧寺に葬られた[1]。家督は実弟の就延が相続した[1]。
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