安養寺城
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安養寺城(あんようじじょう)、または安養寺御坊(あんようじごぼう)は、富山県小矢部市末友にあった日本の城および勝興寺旧伽藍跡。城跡としては史跡未指定だが、一向衆の拠点「勝興寺安養寺御坊跡」として小矢部市指定史跡となっている[1]。とやま城郭カードNo.46[2][3]。
主郭は一辺が約200メートルの方形で、その周りを空堀と土塁で囲っていた。主郭から東側には「寺町」と呼ばれる地が在り、寺によって町割りが行われた寺内町を内包した惣構えを有していた。惣構えには「横矢掛かり[注釈 1]」が用いられていた。惣構えの東端には「大門」と呼ばれる地が在りここは現在でも周囲よりも一段高くなっている。また城域内には本願寺の連枝系寺院にのみ設けられた施設である「御亭[注釈 2]」という地名も伝わっている。越中と加賀の国境越えの主要道として「田近越」が在るが、安養寺城へと通ずる為に「安養寺越え」とも呼ばれた。この地が如何に交通の要所であったかが窺われる事項であると言えよう。
前身は越中土山御坊であり、高木場御坊(現富山県南砺市高窪)移転を経て、永正16年(1519年)にこの地に移転した。前身を含む北陸の真宗系寺院の殆どは山間部に建てられていたが、安養寺城は大型河川に程近い平野部に建てられている。これには山城から平城への変遷と同様の変化が有ったものと思われる。この時、寺領は十数万石に及ぶとも言われており、瑞泉寺と並び越中一向一揆の最重要拠点として機能していた。
しかし天正9年(1581年)4月に越中木舟城城主石黒成綱によって攻められて焼亡した。天正12年(1584年)、佐々成政が越中守山城城主神保氏張を介して越中古国府城の地の寄進を申し出る。この背景には来たるべき前田利家との戦に備えて協力体制を築いておきたいという佐々方の思惑があったと思われる。実際、一向一揆方の猛将として知られ、移転した勝興寺の至近に館を建てて居住していた寺島盛徳、小島国綱兄弟が能登末森城の攻防戦など緒戦で大活躍している事から、この策は成功したと言えよう。勝興寺勢力はこれを受け入れて移転し(現在の勝興寺)、安養寺城は放棄された。
安養寺城で侍大将を務めた沼田太郎右衛門高信を讃える石碑が残っている(市指定有形文化財[4])。享保18年(1733年)10月16日に建てられたもので、漢文体で書かれていた碑文は風化してしまって直接には読めないのだが、その写しが現在でも残っている。勝興寺5代顕幸によって上野沼田庄より招かれて安養寺城を守り、上杉謙信や石黒成綱、佐々成政等と戦いこれを退けた事云々や、恩賞として礪波郡蓑輪村(現富山県小矢部市蓑輪)に領地を貰って用水路(三ヶ村用水)を掘るなど開拓に尽力した様子等が書かれている。
大半は耕地されている為、全貌を把握する事は困難である。鐘楼堂跡や空堀遺構が残っており、往事を偲ぶ事は出来る。石碑、案内板が建てられている。
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