Loading AI tools
江戸時代の囲碁棋士 ウィキペディアから
安井 算知(俊哲)(やすい さんち(しゅんてつ)、文化7年(1810年) - 安政5年7月4日(1858年8月12日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元安井家の九世安井算知、七段上手。八世安井知得仙知の長男で、二世安井算知の名を継ぐ。天保四傑と呼ばれた一人で、無双の力碁とされる。息子は十世安井算英。
江戸両国薬研堀の安井家屋敷で生まれる。幼名は金之助、後に俊哲と名乗る。少年時代には、安井家が本所相生町の本因坊家屋敷に近かったため、姉の鉚(のちに二段)とともに腕を磨きに通った。文政8年(1825年)に16歳二段で跡目になり、御城碁に初出仕し服部因淑に三子で中押勝。若い頃は打つ買う飲むの道楽者だったが、父仙知は一言の小言も言わず、見苦しい負けをしたときだけ叱ったと言われる(『坐隠談叢』)。天保4年(1833年)六段昇段。天保8年(1837年)七段昇段するが、手合割は六段のままという名目的な昇段だった。天保9年(1838年)に父仙知が没し、家督を相続して九世安井算知となる。
御城碁では、七世安井仙知の喪に服した天保8年を除き、安政4年(1857年)まで皆勤し42局を勤め、これは本因坊烈元に次ぐ。安政5年(1858年)に弟子の海老沢健造(後の巌崎健造)とともに関西を遊歴し、7月に帰路の沼津で没する。子の算英が12歳で安井家を継いだ。
伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、阪口仙得の四人で「天保四傑」とよばれた。
井上幻庵因碩とは先相先まで十数局を遺し、算知先では打ち分け。本因坊丈和とは、文政12年(1829年)御城碁で二子で敗れ、父に叱責されたと言う。天保4年の先二の先番では、4日をかけて1目勝ち。
10歳年少の本因坊秀和とは親しい間柄で、130局あまりが遺されている。天保7年(1836年)に秀和先が初手合。その後秀和の成長により、天保8年には秀和先相先だったが、翌年1月に互先、6月には算知先相先、10年には先二にまで打込まれ、14年には互先に戻す。その後は算知先相先と先を往復した。ただし御城碁での対秀和戦では、黒番で5勝、白番で1勝3敗としている。両者間の対局では、秀和の星打ち、算知の三々や天元打ちなども試みられている。
天保10年(1839年)の伊藤松和(勝)との対局は、405手の長手順で知られる。
算知門下では、巌崎健造、鬼塚源治、奈良林倉吉、中村正平が当時安井門四天王と呼ばれ、他に田原恒三郎、中松松齋、石原常三郎、島村栄太郎らの五段がいた。健造は明治期にも活躍し、方円社3代目社長も務める。健造が算英十歳頃に碁を見てやっていて、あまりに稚拙な手を打つので手を上げたことがあり、算英は泣いて母親に訴えたが、算知は健造の話を聞いて、今後も遠慮なく殴ってくれ、算英の兄とも師ともなってくれと褒めたと言う。
安井家の一世安井算哲、二世安井算知、三世安井知哲の墓所は京都寂光寺にあったが、宝永5年(1708年)に火災で失われた。算知はこれを、嘉永5年(1852年)に江戸深川浄心寺に改葬した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.