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塩谷 朝業(しおのや ともなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人・歌人。宇都宮成綱の子。母は平忠正の長子の新院蔵人長盛(新院は崇徳天皇の事)の娘。実父と養父の名を取って朝業と名乗る。下野宇都宮氏の生まれだが、当代の清和源氏流塩谷氏当主朝義に子が無かったことから、朝義の娘婿となり[2]塩谷氏の名跡を継ぐ。系図では、子に塩谷親朝、笠間時朝、26歳で出家して親鸞の弟子となった塩谷朝貞(賢快・肥前法師)、三人の男子の間に一人ずつ娘(第二子、第四子)がいる。
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宇都宮氏宗家4代当主宇都宮成綱と平忠正の孫娘を父母に持つ。塩原地方の統治基盤のてこ入れとして、後継者の無い塩谷朝義の養子として塩谷氏を継ぐ。
承安4年(1174年)1月24日 (旧暦)に生まれ、建久3年(1192年)に父・業綱が夭逝、2年後の建久5年(1194年)5月には祖父・朝綱が下野守野呂行房より公田横領を訴えられ、同年7月には朝業も連座の咎で周防国国府へと配流される。この時、朝綱は土佐国、兄・頼綱は豊後国へ流されている。源頼朝の働きかけがあったか、早いうちに赦免され帰国する。なお一説に実際には周防国には行かなかったとされる。
朝業がいつ塩谷氏の養子となりその名跡を継いだかは不詳であるが、朝業の領地の一つであった下伊佐野の箒根神社の由緒沿革によれば、建久2年(1191年)に下伊佐野一帯が朝業の領地となり、免地高二石二斗を寄進されたとあり、この頃か、少なくともこの時以前には、家督を継いでいたものと考えられている。[3]
こうして朝業は塩谷郡における宇都宮氏族の防衛基盤を構築する傍ら、建仁3年(1203年)に第3代将軍となった源実朝に仕えて歌詠みの相手となる。『吾妻鏡』によると、建暦2年2月1日(1212年3月12日)に実朝が梅の花を一枝折って送り人知らずで朝業に届けさせると、朝業は直ぐに実朝の仕業と解し「嬉しさも匂いも袖に余りける、我が為折れる梅の初花」と一首詠んで追奉したとある。朝業と実朝は身分を越えて親しい間柄となり、建保7年1月27日(1219年2月20日)に実朝が公暁に暗殺されると、塩谷に戻り出家して信生と号し隠遁した。その後半生は歌人として『信生法師日記』を著すなど、兄・頼綱入道蓮生法師と共に宇都宮歌壇を創成し、また高僧法然を畏敬してその弟子の証空に師事し、文人・宗教人として京で暮らした。元仁2年(1225年)4月には善行寺詣の途中で、前年の伊賀氏事件で信濃国に配流された旧知の伊賀光宗を姥捨山の麓にあるという配所に訪ね、和歌を詠み交わしている。
嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、信生(朝業)と兄の蓮生(頼綱)の他、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。
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