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具平親王の三女、斎宮 ウィキペディアから
嫥子女王(せんしじょおう、寛弘2年(1005年) - 永保元年6月16日(1081年7月24日))は、村上天皇第7皇子具平親王の三女。母は為平親王の次女。後一条天皇時の伊勢斎宮、後に藤原教通の正室。弟に源師房、姉に隆姫女王(藤原頼通室)、敦康親王妃がいる。
長和5年(1016年)2月19日、後一条天皇の即位に伴い、斎宮に卜定された。寛仁2年(1018年)伊勢に群行。万寿2年(1025年)、勅使を迎えて裳着が行われた。長元4年(1031年)、酒乱に乗じて伊勢神宮の荒魂と称して託宣を下し、斎宮権頭藤原相通夫妻の不正、また朝廷の斎宮祭祀軽視を非難した(斎王託宣事件)。長元9年(1036年)4月17日、後一条天皇の崩御により退下。
永承6年(1051年)、3年前に禔子内親王(三条天皇皇女)を亡くした藤原教通の継室となった。教通との間に子はなかった。永保元年(1081年)、77歳で薨去。
長元4年6月17日、月次祭に奉仕中に神がかりの状態となり、神宮祭主大中臣輔親に託宣を下した。斎宮権頭藤原相通とその妻藤原小忌古曾の不正を糾弾し、また斎宮の冷遇は天皇の失政であると朝廷を非難した。(後述の『後拾遺集』の歌の詞書によると、託宣の際に何度も酒杯をあおったとあり、酒乱状態であったようである) 朝廷で対応が話し合われ、藤原実資は『小右記』に「斎王が託宣を告げるなどということは、前代未聞」と記している。藤原相通夫妻はそれぞれ流罪となった。
託宣の際に大中臣輔親と交わした和歌が『後拾遺集』に載せられている。
「さかづきにさやけき影のみえぬれば ちりのおそりはあらじとをしれ」
(盃に冴えた月の光が映って見えた。不逞の輩の罪は、神の目にくっきりとお見通しだ。だから、塵ほどの心配も必要ないことを知れ。)
輔親の返歌「おほぢちゝむまごすけちかみよまでに いたゞきまつるすべらおほんがみ」
(祖父の頼基、父の能宣、孫のわたくし輔親と、三代までもお仕え申し上げる皇祖神さま。御託宣は謹んで承りました。)
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