秦始皇帝陵及び兵馬俑坑
西安の史跡(世界遺産) ウィキペディアから
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑(しんしこうていりょうおよびへいばようこう)は、中国陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある、秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑のユネスコの世界文化遺産としての総称である。中国の5A級観光地(2007年認定)でもある[1]。
概要
中国史初の皇帝であった秦の始皇帝は、その強大な力を背景に大規模な陵墓を建設した。これが秦始皇帝陵で、紀元前246年から紀元前208年にかけて造られたと推定されている。1974年、地元の住民により兵馬俑が発見され[2]、1975年の新華社の報道で世界的な大ニュースとなった[3]。
陵墓はピラミッド型の土塁で高さ76mである。長年の浸食で頂部は丸くなっている。また兵馬俑は陵墓の1.5km東に位置し、その規模は2ha程である。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあり、みな戦闘態勢で東を向いている。
この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査がなされていない。なお、兵馬俑を建設したのは二代皇帝胡亥という説もある。[要出典]
史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認された[4]。
- 秦始皇帝陵
- 秦始皇帝陵(緑色)とその周囲の墓域
歴史の沿革
建造の背景
始皇帝は13歳で即位した際、驪山北麓に陵墓の建設を開始。丞相・李斯が設計を主導し、少府令・章邯が監督。最大70万人が動員され、地勢や風水思想(背山臨水の地形)に基づき選定された[5]。
秦始皇帝陵は「死後の世界も生前と同様」という思想に基づき、秦の都・咸陽を模した回字形の構造を持ちます。陵園は陵園区と従葬区に分かれ、総面積は約56.25平方キロメートル。地宮を中心に、内城・外城・外城外の4層構造で構成され、厳密な主従関係が存在します[6]。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
- (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
- 秦始皇帝陵および兵馬俑坑
脚注
関連項目
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