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大里 忠一郎(おおさと ちゅういちろう、天保6年(1835年)8月 - 明治31年(1898年)6月7日)は日本の実業家。
信濃国埴科郡西条村(現長野市)の旧家・相沢家に生まれ、松代藩士の大里忠右衛門の養子となる。家老の真田桜山に抜擢され、戊辰戦争にも従軍し、大垣で岩倉具定に松代藩の恭順を申し出、東山道鎮撫軍の監軍岩村高俊を上田に迎えた。戦後に藩主の真田幸民より賞典禄26石を賜った。松代藩産物会所に関係し、明治維新後は松代商法社の役人となった。また廃藩置県に伴う士族授産として製糸業に着目し、明治5年(1872年)に開業したばかりの官営富岡製糸場を視察の末、同7年(1874年)に西条村六工地籍に六工社を有志ら7名と共に設立した。
富岡製糸場に女工を派遣して技術を伝習させた。それまでの座操製糸を転換し、民間初の蒸気器械を導入し、自ら銅製の製糸用汽缶や蒸気器械を製作、設備改善を進めて製糸技術の発展に努た。同11年(1878年)には長野県御用掛となり、長野県営製糸場も経営、また共進会や博覧会の審査員も務めた。同13年(1880年)西条村戸長の傍ら、生糸直輸出商社同伸会社の設立に参加し、輸出にも貢献した。同22年(1889年)には農商務省の嘱託によりイタリア、フランス両国を巡視し、大日本農会委員に任じられた。 明治31年(1898年)に没し、1924年(大正13年)に従五位を遺贈された[1]。
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