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大嶋氏(大島氏・おおしまし)は、日本の氏族。
上野国新田郡大嶋邑より起こった[1]。尊卑分脈によれば清和源氏新田氏庶流の里見義俊の孫義継の代になって大嶋氏を名乗ったのに始まる[1]。南北朝時代には大嶋氏は一族両方に分かれて戦ったため、室町時代にも相当の勢力を保持したという[1]。
近世大名家、後に旗本家となった大嶋氏は新田流大嶋氏の子孫と称するが[2]、美濃国出身であるため、美濃の土岐氏流大嶋氏の一族ではとする説もある[3]。
美濃国人光宗の子光義は織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、強弓の弓頭として名を馳せ、美濃国関で1万2000石を与えられたのに始まり、関ヶ原で東軍に付いて美濃国と摂津国で1万8000石に加増されたが、慶長4年(1604年)の光義の死去に際して長男光成に7500石、光政に4710石、光俊に3250石、光朝に2550石を分割したので大名たる地位を失い、旗本家4家に分裂[2]。
7500石の嫡流は寛永14年に義豊が14歳で死去した際に無嗣改易[2]。
4710石の光政の家系は加茂郡川辺に陣屋を置いて川辺大嶋家となる[2]。
3250石(後に2000石に減封)の光俊の家系は美濃国迫間に陣屋を置いて迫間大嶋家となる[2]。維新後士族。
美濃国安八郡大嶋村より起こったと思われる一族。土岐系図に土岐光定から光時、光清を経て光吉の代に大嶋を名乗ったとされている。上記旗本の大嶋氏はこの系譜である可能性がある[3]。
周防国大島に起こり、中世以来海賊衆として名が見え、厳島の戦いでは宇賀島水軍と共に陶氏に属した。毛利氏の家臣団の中に大島の名前が見え、この一族である可能性がある。長州藩士出身で日清日露戦争で戦功を挙げた大島義昌陸軍大将は華族の子爵に列せられた[4][5]。
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