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大 諲譔(だい いんせん)は、渤海の第15代(最後の)王。
文献の記録は乏しいが、朱晃が後梁を建国した後の開平元年(907年)に王子の大昭順を遣わして入朝し、在位中に合計6回の使節派遣をしたことが記録に残っている。
渤海西部では契丹の勢力が拡大し、渤海は西部の扶余府に軍隊を駐留させるなどの対応に追われた。しかし軍事力で対抗できないことを理解した渤海は貞明4年(918年)に後梁に進貢したが、それでも契丹の進出に対抗することができなかった。契丹に対抗すべく周辺諸国の支援を求めたが、中国は当時五代十国時代の争乱で渤海を支援する余力はなく、やむを得ず新羅や新興の高麗、日本などと協力する方針を打ち出した。しかし新羅が契丹に通じたことで渤海は窮地に立たされ、同光4年(926年)に遂に上京龍泉府が陥落し、大諲譔が投降した事で渤海は滅亡した。
契丹の皇帝耶律阿保機は長男の突欲を王に封じて東丹国を作り、渤海の故地を支配させた。降伏した大諲譔は契丹の都上京臨潢府に連行されて幽閉された。
『遼史』巻二太祖紀下、天顕元年に「秋七月丙辰、鐵州刺史衛鈞反す。乙丑、堯骨攻めて鐵州を抜く。庚午、東丹国左大相迭剌卒す。辛未、衛 大諲譔を皇都の西に送り、城を築きて以て之を居らしむ。諲譔に名を賜い烏魯古と曰い、妻を曰阿里只と曰う。」とあり、契丹から大諲譔は「烏魯古」の名を、妻は「阿里只」の名を賜っている[1]。「烏魯古」「阿里只」の名はもともと遼太祖と述律皇后が騎乗していた二匹の馬の名で、本義は必ずや悪いものではないが、降伏した国王と王后に賜ったのだから、美意ではない[1]。
1991年に遼寧省北鎮市で『大契丹国故廣陵郡王墓誌銘』(『耶律宗教墓誌』)が出土した。墓主は字が朝隠、名は驢糞または旅墳、漢名は宗教、遼景宗の仲子である耶律隆慶庶出の長子である[1]。『大契丹国故廣陵郡王墓誌銘』には、以下の記事がある。
漢文墓誌 : 母曰蕭氏、故渤海聖王孫女、遅女娘子也。
契丹小字墓誌 : məgə mirgi ʧinio au'ui dan gur-n ju qan urgu-n uran pon.
意訳 : 母 迷里吉 遅女 娘子 丹 国の 聖 汗 烏魯古の 後裔。 — 大契丹国故廣陵郡王墓誌銘
「məgə」=「母」、「mirgi」=「迷里吉」(迷里吉は契丹の姓氏)、「ʧinio」=「遅女」(遅女は耶律宗教の母蕭氏の名)、「dan ~ tan」=「丹」あるいは「檀」(漢語の「丹」あるいは「檀」に対訳しうる)、「gur-n」=「国」(「-n」は所有格接尾辞を附す)、「au'ui」=「娘子」、「ju」=「尊」(ここでは「聖」に対訳する)、「qan」=「汗」(遼帝、宋帝いずれもこの称を用いる)、「urgu-n」=「烏魯古」(「-n」は所有格接尾辞を附す。聖汗の名である)、「uran pon」=「後裔」[1]。「urgu」は契丹の男子が使用する名であり、「烏魯古」あるいは「烏魯姑」と音訳し、契丹文墓誌にしばしばこの名がみえる。漢文墓誌の「聖王」は、渤海国王の専称であり、漢文墓誌の「故渤海聖王」と契丹小字墓誌の「dan gur-n ju qan(丹国の聖汗)」は大諲譔を指す(dan gur-n ju qan(丹国の聖汗)「烏魯古」=渤海聖王「大諲譔」)。このことから、耶律宗教の母である遅女娘子は大諲譔の外孫であることがわかる[1]。
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