夜のストレンジャー

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夜のストレンジャー」(よるのストレンジャー、Strangers in the Night)は、ベルト・ケンプフェルトが作曲し、チャールズ・シングルトン英語版エディー・スナイダー英語版英語の歌詞を付けた楽曲[2]1966年フランク・シナトラが歌って有名になった[3][4]

概要 「夜のストレンジャー」, フランク・シナトラ の シングル ...
「夜のストレンジャー」
フランク・シナトラシングル
初出アルバム『夜のストレンジャー
B面 オー・ユー・クレイジー・ムーン
リリース
規格 7インチ・シングル
録音 ロサンゼルス、1966年4月11日
ジャンル トラディショナル・ポップ、ジャズ・ボーカル
時間
レーベル リプリーズ・レコード
作詞・作曲 ベルト・ケンプフェルトチャールズ・シングルトンエディー・スナイダー[2]
プロデュース ジミー・ボウエン英語版
チャート最高順位
ミュージックビデオ
「Strangers in the Night」 - YouTube
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概要 「夜のストレンジャー」, コニー・フランシス の シングル ...
「夜のストレンジャー」
コニー・フランシスシングル
A面 Somewhere, My Love
リリース
規格 7" シングル
録音 1966年5月31日
ジャンル Schlager musicドイツポップ・ミュージック
時間
レーベル MGM 61 148
作詞・作曲 ベルト・ケンプフェルトチャールズ・シングルトンエディー・スナイダー
プロデュース トム・ウィルソン
コニー・フランシス ドイツ盤シングル 年表
Es ist so schön, dass es dich gibt /
Das soll nie mehr vorübergeh'n
(1967)
Somewhere, My Love /
Strangers in The Night
(1967)
Goodbye, Mama /
Traumboot
(1967)
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フランク・シナトラのバージョン

ケンプフェルトはこの曲を、当初は「ベディ・バイ (Beddy Bye)」という曲名で、映画『ダイヤモンド作戦 (A Man Could Get Killed)』のための器楽曲の一部として書いた[2]

シナトラは1966年4月11日にロサンゼルスでこの曲を録音した。ドラムズはハル・ブレイン。ギターでグレン・キャンベルが参加している[5]。編曲はアーニー・フリーマンが務めた[6]。同年4月にシングルとして発表。B面は「オー・ユー・クレイジー・ムーン」。

Billboard Hot 100 チャートと、イージーリスニング・チャート(後の Adult Contemporary)の両方で首位に立ち[7]、シナトラの1966年のアルバム『夜のストレンジャー (Strangers in the Night)』のタイトル・ソングとなり、このアルバムはシナトラにとって、最も商業的に成功したアルバムとなった。さらにこの曲は、全英シングルチャートでも首位に立った[8]

受賞

第9回グラミー賞英語版で、シナトラの録音は最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞英語版最優秀レコード賞を受賞し[9]、さらにアーニー・フリーマン英語版最優秀ヴォーカリストないしインストゥルメンタリスト伴奏編曲賞英語版をもたらした[10]

この曲は、1966年の映画を対象とした1967年第24回ゴールデングローブ賞で、主題歌賞を受賞した[11][12]。著作権管理団体BMIによる、BMI賞英語版では、1966年に最も多く放送で流された曲とされた (Most Performed Song in the BMI Repertoire 1966)[12]。さらに1980年には、ゴールデン・ヨーロッパ賞ドイツ語版も受賞している[12]

楽曲の成立経緯についての異説

この曲は、ドイツ人音楽プロデューサー作曲家でもあったベルト・ケンプフェルトが作曲したとされているが、これには複数の異説がある。実際の作曲者とされることがある人物のひとりは、ベイルート生まれのアルメニア系アメリカ人音楽家アヴォ・ウヴェジアン英語版である[13]。また、当時のユーゴスラビア社会主義連邦共和国クロアチア人作曲家イーヴォ・ロビッチがこの曲を書いて、権利をケンプフェルトに売り渡したとする説もしばしば流される[14]

1967年フランスの作曲家ミシェル・フィリップ=ジェラールフランス語版(「フィリップ=ジェラール」の通称で知られる)は、「夜のストレンジャー」の旋律は、1953年ニューヨークの Chappells から出版した自分の作品「Magic Tango」を下敷きにしたものだと主張して訴えを起こした[15]。このため、この曲のロイヤリティの支払いはいったん凍結されたが[16]1971年にパリの裁判所は、多くの曲に類似点は見つかるものだとして、この主張を斥けた[17]

カバー

この曲は多数のカバーを生み、シナトラ盤の発表から12か月以内に200件以上のカバーが生まれたといわれている[18]

メディアでの使用

脚注

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