堅田少輔
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堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日[1])- 大正8年(1919年)11月29日[1][2][3][4][5])は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正[1]。通称・健助、大和、少輔[1]。
長門国阿武郡萩平安古[1](山口県[4]阿武郡萩町[5]を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた[1][3]。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した[1][3]。
慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任[1]。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した[1]。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる[1]。同年11月、討幕軍・山陽道出兵総督に任じられ[1][2][3]、明治元年(1868年)1月、備後福山城を攻略した[1][2]。
明治維新後の明治4年(1871年)にアメリカ合衆国に留学してコロンビア大学に入学[1][2][3][4][5]。明治8年(1875年)に帰国、工部大学校技手に就任[1][2][4][5]。明治10年(1877年)に辞職し、東京に成章学舎を創立した[1][2][3][4][5]。明治17年(1884年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)教諭に就任し[1]、明治20年(1887年)には山口高等中学校教授に転じた[1][2][3]。
井上正一が大審院判事となり議員を退職したため、堅田は高等中学校を退職し[1]明治24年(1891年)7月に実施の第1回衆議院議員総選挙山口県第2区補欠選挙で当選し[6]、さらに明治25年(1892年)2月の第2回総選挙(山口県第2区、中央交渉会)でも再選され[7]、その後、議員倶楽部に所属し衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4][5]。
明治31年(1898年)に佐波郡立周陽中学校(現山口県立防府高等学校)長に就任[1][2][3]。大日本教育会山口支会商議員も務めた[4][5]。明治42年(1909年)には堅田氏伝来の所領であった都濃郡湯野村の村長となる[1][2][3][4][5]。大正3年(1914年)に引退し[1][2]、山口湯田に移り[1][2]、大正8年(1919年)11月、病のため死去した[1]。
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