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映画監督 ウィキペディアから
唐 順棋(とう じゅんき、1929年1月16日 - )は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5][6][7]。神奈川県横浜市生まれ、国籍は中華人民共和国である[1]。日本名唐沢 二郎(からさわ じろう)[1][2][3][4][5][7]、別名早坂 紘(はやさか こう)あるいは早坂 絋清(はやさか こうせい)の名でも活動した[3][4][5][7]。「早坂絋」「早坂絃」「早坂宏」と記されることもある。おもにテレビ映画において「唐順棋」、劇場用映画において「唐沢二郎」「早坂紘」を使い分けた[3][4][5][7]。連続テレビ映画『水滸伝』、『西遊記』では時代考証を手がけた[7][8]。
とう じゅんき 唐 順棋 | |
---|---|
本名 | 同 |
別名義 |
唐沢 二郎(からさわ じろう) 早坂 紘(はやさか こう) 早坂 絋清(はやさか こうせい) |
生年月日 | 1929年1月16日(95歳) |
出生地 | 日本 神奈川県横浜市 |
国籍 |
中華民国 ⇒ 中華人民共和国 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | 劇場用映画(時代劇・ピンク映画)、テレビ映画(時代劇) |
活動期間 | 1953年 - 1983年 |
主な作品 | |
劇場用映画 「トルコ拷問シリーズ」(「早坂紘」名義) テレビ映画 『遊星王子』(1958年 - 1959年) 『水滸伝』(時代考証、1973年 - 1974年) 『西遊記』(時代考証、1978年 - 1979年) 『斬り捨て御免!』(1980年 - 1982年) |
1929年(昭和4年)1月16日、神奈川県横浜市中区元町に生まれる[1][2]。『日本映画監督全集』によれば、本籍は中華人民共和国上海市延安東路にあるといい[1]、同国は1949年(昭和24年)10月1日に建国されており[9]、同書の記述が正しければ同国建国以降のものであり、唐の誕生の時点では同地は中華民国に属していた[10]。旧制・神奈川県立横浜第三中学校(現在の神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)、旧制・第一高等学校(現在の東京大学教養学部)文科甲類を卒業し、第二次世界大戦後、京都大学法学部に進学した[1]。同学在学時の友人に当時の東映京都撮影所長であり、かつてのマキノ・プロダクション總務部次長であった長橋善語(長橋達夫[11])の子がおり、唐は長橋の薫陶を受けて映画界入りを決意したという[1]。
1953年(昭和28年)3月、同学を卒業するとともに、高村将嗣の宝プロダクション(京都市右京区)に入社する[1][12]。同社は当初は新東宝配給作品を製作していたが、東映配給に変更になり、同年には自主製作を中止、東映京都撮影所とステージ賃借契約を結んだ会社である[12]。唐は当初はマキノ雅弘、ついで渡辺邦男、中川信夫に師事した[1]。当時同社の助監督部には加藤泰の弟子として船床定男がいた[13][14]。同社は1958年(昭和33年)には倒産するが[12]、唐はすでにその前に退社しており、倒産前年の1957年(昭和32年)4月2日、同4月23日に東宝が製作・配給して公開された『早く帰ってコ』、『東京だヨおッ母さん』の2作にチーフの船床、セカンドの永倉君平につぐサード助監督としてクレジットされている[6]。宝プロダクションが倒産するころには、船床らとともに宣弘社と契約を結び、連続テレビ映画『月光仮面』で監督に抜擢された船床のチーフ助監督を務める[1]。1958年11月4日に放映開始した『遊星王子』では、唐沢 二郎の名で監督に昇進した[7]。
1963年(昭和38年)、宣弘社との契約期間満了に伴い、かつて東宝のプロデューサーであった本木荘二郎に奨められ、成人映画『0の情痴』を監督する[1]。翌1964年(昭和39年)には歌舞伎座テレビ室と契約を結び、テレビ映画の世界に戻りつつ[1]、本木荘二郎のシネユニモンドで、『性の爆発』(1965年)、『情痴の果て』(同)、『女・三百六十五夜』(1966年)を「唐沢二郎」の名で発表する[4][5]。1968年(昭和43年)4月には、大井由次(小諸次郎)の青年群像で『女の秘絵図』を早坂 絋清の名で発表、同年7月には同じく青年群像で『0の陰獣 日本性犯罪史』を早坂 紘の名で発表[4][5]、以降これが唐の第3の名となる[3][4][5]。この時期、歌舞伎座テレビ室では助監督を務めており、1969年(昭和44年)4月28日に放映開始された連続テレビ映画『木石』(原作舟橋聖一)で監督に昇進した[7]。
1970年(昭和45年)7月4日に放映開始された連続テレビ映画『日本怪談劇場』では、全13話中12話で「監督補」を務め、第8話『怪談・首斬り浅右衛門』(同年8月22日放映)では監督を務めた[7]。1970年代の前半においては、『蛇姫様』(原作川口松太郎、1972年放映)、『怪談』(1972年放映)、『ご存知時代劇』(1973年放映)といった連続テレビ映画の監督を務め、1973年(昭和48年)10月2日に放映を開始した『水滸伝』(製作国際放映)では「時代考証」とクレジットされる等、テレビ映画を手がけるかたわら、「唐沢二郎」「早坂紘」を使い分けて多くの成人映画を発表した[3][4][5][7]。この時代に手がけた成人映画作品は、「コメディ・ピンク」と呼ぶべき「明るく軽妙なタッチ」の作品であったという[1]。『水滸伝』で初めて手がけた「時代考証」については、考証家の林美一に高く評価された[8]。
1970年代の後半においては、1978年(昭和53年)10月1日に放映を開始した『西遊記』(製作国際放映)の「時代考証」を手がけた以外は、精力的に成人映画の演出に取り組んだ[3][4][5][7]。同年2月25日に公開された『刺青』は、「唐順棋」名義でクレジットされた最初で最後の監督作であり、同作は凡天太郎と共同で監督したほか、凡天とともに出演もしている[4]。1979年(昭和54年)6月5日に公開された『トルコ拷問 激痛』に始まる「トルコ拷問シリーズ」は、シリーズ6作中4作を「早坂紘」名義で手がけている[4][5]。映画監督の旦雄二が「早坂紘」に師事したのはこの時代(1975年 - 1978年)である[15]。
1980年(昭和55年)4月9日に放映を開始した『斬り捨て御免!』では、全3シーズンを通じて合計16話を監督した[7]。1982年(昭和57年)6月に公開された『衝撃マントル 淫室密写』が記録に残る最後の劇場用映画である(「早坂紘」名義)[3][4][5]。テレビ映画も、1983年(昭和58年)3月16日に放映された『眠狂四郎円月殺法』第17話『美女姫身代り残忍剣-白須賀の巻-』を監督したのが最後である[7]。満54歳の時点で作品的には沈黙した[3][4][5][6][7]。
東京国立近代美術館フィルムセンターは、唐の監督作のうち、『男と女 ポルノ四十八態』、『痴漢クラブ 熱い肌の誘惑』、『ベッドマナー 男いびり』、『発情 おんな寝物語』の4作の上映用ポジプリントを所蔵している[3]。
クレジットは特筆以外はすべて「監督」である[1][3][4][5][6][7]。クレジットされた名はすべて名義を明記した[1][3][4][5][6][7]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。
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