向寵
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生涯
『三国志』蜀書に叔父の向朗の伝があり、向寵の伝もそこに付される。劉備の時代に牙門将となった。章武2年(222年)[1]、夷陵の戦いで蜀漢は大敗を喫するが、向寵の陣営だけは守備を全うした。
劉禅の時代に当たる建興元年(223年)、都亭侯に封じられる。後に中部督となり、近衛兵を指揮した。
建興5年(227年)[2]、諸葛亮は北伐に先立って出師表を上奏したが、その中で向寵を「先帝(劉備)からも有能と称賛された」人物であるとし、「営中(軍事)のことは全て彼に諮問されれば必ずや協調を得られるでしょう」と推薦した。
中領軍に昇進した後の延熙3年(240年)、漢嘉郡の異民族を討伐した際に、殺害された。
三国志演義
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』巻41 蜀書 向朗伝付 向寵伝(中国語版ウィキソース)
脚注
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