吉高勘解由
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吉高氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の傍流・甲斐源氏の流れで、信濃国守護・小笠原氏の一門小笠原光冬が出羽楢岡城主となって以降、楢岡氏を名乗るようになり、さらに楢岡光信の四男が義高勘解由を名乗り、新庄藩2代藩主・戸沢正誠に仕え、吉高姓を称するようになったのが始まりとされる。代々、勘解由を名乗るが、本項では6代勘解由について解説する[1]。
文化4年(1807年)、吉高織部の嫡男として誕生。幼名を弥十郎といい、長じてからは峯右衛門、そして代々継承する勘解由を名乗った。
文政12年(1829年)、22歳で家督を継ぎ、若くして寺社奉行格となり、御取次役に任ぜられた。文政13年(1830年)寺社奉行となり、さらに天保3年(1832年)に9代藩主・戸沢正胤の前で御用人を命ぜられたが、不慎の儀ありとして役職を免ぜられ、御内証無役に降任された。しかし、天保11年(1840年)、正胤が隠居し戸沢正令が10代藩主となって、勘解由への譴責が解かれ、再び寺社奉行に返り咲き、天保13年(1842年)御用人を当面、寺社奉行と兼務することを命ぜられた。天保14年(1843年)、大殿様付となり、正胤に侍した。しかし、同年、藩主・正令が亡くなり正実が家督を継いだ。
11代藩主・正実は家督相続時に12歳と若年で、政務は前々藩主・正胤が見たため、勘解由はその下にあって政務を補佐、天保15年(1844年)に近習頭・御用書加判を命ぜられた。勘解由は前々藩主・正胤の下で嘉永の藩政改革に従事し、弘化2年(1845年)、御手元並郷中御備米掛、中老を経て、弘化3年(1846年)、家老に任ぜられ150石を加増された。
嘉永4年(1851年)、藩政改革が実を挙げたことから恩賞として100石を加増され、500石取りとなった。嘉永5年(1852年)、病を得て御役御免を願ったが藩主の信任厚く許されず、嘉永7年(1854年)にも再願も却下され、城内台所まで駕籠で登城して良いとの許しを得た。慶応2年(1866年)に隠居し、家督を晋六郎に譲ったが慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると新庄藩は奥羽列藩同盟に加わらず、新政府軍についたため、庄内藩の猛攻により落城し、新庄勢と共に秋田藩領内に敗走、勘解由もこれに随った。
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