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日本統治時代の台湾の都市計画 ウィキペディアから
台北市区計画(たいほくしくけいかく)とは、日本統治時代の台湾 における1899年(明治32年)に公布された台北最初の全市的な都市計画(当時の言葉で市区計画)であり、1932年(昭和7年)の全面改正まで効力を有した計画である。この計画は、台北の衛生改善(上下水道の整備)とセットで行われた[1]。
1895年(明治28年)当時、台湾ではマラリア、ペストが流行し、市街地の衛生状態は極めて劣悪であった。市街地の道路は狭隘で曲がりくねっていた。多くの家屋は土干し煉瓦造であり、下水は道路上に排出され、地下に汚水が浸透していた。このため阿片対策と並んで都市の環境衛生環境問題は台湾統治初期における最優先課題であった[2]。
1896年(明治29年)に台湾総督府衛生顧問に就任した後藤新平は、同年7月、内務省雇技師ウィリアム・K・バートン(William Kinninmond Burton, 1856年 - 1899年)を上下水道整備調査のため、台湾に派遣した。バートンは、翌1897年(明治30年)4月に以下の内容の報告書を提出した。
総督府は、このバートンの提案を受け入れた[3]。台北では1885年(明治28年)より下水道工事が行われており、さらにその後、1907年より新店渓を水源とする上水道工事(台北水道)が行われていたが、これと道路の拡幅を併せて進めることを得策と判断されたのである[4]。
後藤新平の台湾着任の翌月すなわち1898年(明治31年)4月、台湾総督府内に台北市市区改正委員会が設置され、正式に都市計画の調査立案がされた。その概要は以下のとおりである。
三線道路の開通後、台湾城内の中国式官公所もすべて撤去され、近代建築が続々と建築された[4]。
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