Loading AI tools
ウィキペディアから
南 俊二(みなみ しゅんじ、1882年9月28日 - 1961年12月29日)は、日本の実業家、投資家。太平洋戦争後の一時期は菊池寛実、大谷米太郎とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。
相模鉄道株式会社社長、日出生鉄道株式会社社長、豊州鉄道株式会社社長、株式会社大阪造船所社長(初代)、東洋オリーブ株式会社社長(初代)などを歴任した。
大阪府にて生まれた。旧制大阪高等商業学校にて学び、1903年に卒業した。卒業後は日下部商店に入社した。1909年に南商店を構えて独立し、相場師として名を馳せた。穀類や肥料などの貿易などを手広く行ったが、株式相場では思うような結果が出せなかった。
そのため、昭和期初頭には製造業に業種を転換し、一転して製鉄業、鉱業、セメント製造業などに力を注いだ。1936年には大阪造船所を設立し、現在に続くダイゾーグループの基礎をつくった。以来、堅実な経営の実践に邁進したことから、事業を軌道に乗せた。
太平洋戦争後は事業も安定し、投資活動にも成功したことから、巨額の富を手中にしたと伝えられる。1949年、日本鉱業が馬上金山の閉山を決めると、大阪造船所に命じて鉱業権を日本鉱業から買収した。1955年には、パナマ船籍だった「オリンピック・チャレンジャー」およびその船団を買収し、併せて南氷洋での漁業権を獲得した。このように、巨額の資金を元手にさまざまな権利を収めていった。その結果、東洋濾紙を創業した菊池寛実、大谷重工業やホテルニューオータニを創業した大谷米太郎とともに「日本の三大億万長者」と呼ばれるようになった。
南については、国会審議でも何度か取り上げられることがあった。
俊二の跡を継ぎ大阪造船グループを率いた南景樹は、俊二の長男にあたる。景樹の跡を継いだのは、俊二の義孫にあたる南尚である。その後、尚の娘婿となった南宣之が、ダイゾーの社長を務めた。また、俊二の二男の南保夫は、大阪造船所の副社長をはじめ大洋製鋼の会長などを歴任した。保夫の長男の南元一は、大洋製鋼の専務などを歴任した。保夫の長女と結婚した安西直昭は、東京瓦斯の会長などを務めた安西浩の四男であり、日本鋼管で活躍した。また、保夫の二女と結婚した湯浅敬三は、神戸女学院の理事長であった湯浅恭三の孫であり、南友企業の経営陣として活躍した。そのほか、著名な係累縁者が多数存在するため、下記の一覧では俊二の親族に該当する者のみ記載した。
南数治郎 | 南俊二 | 南景樹 | 南和子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南安子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南宣之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南保夫 | 南元一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南尚子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保夫の長女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安西直昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保夫の二女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
湯浅敬三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.