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劉 賜(りゅう し、? - 52年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。字は子琴。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。曾祖父は舂陵侯劉熊渠。祖父は劉利。父の名は不詳。従兄弟(劉利の子の劉子張の子)は更始帝(劉玄)。後漢の光武帝(劉秀)の曾祖父の劉外は劉熊渠の弟にあたるため、光武帝の族兄にあたる。兄は劉顕。甥(劉顕の子)は劉信。子は劉閔。妹の夫は樊宏。
劉賜は幼くして孤児となり、さらに兄の劉顕は復仇のために殺人を犯し[1]、役人に捕えられて処刑された。これを怨んだ劉賜は、劉顕の子の劉信と共に、家財を擲って刺客を雇い入れて復讐を果たしている[2]。その後、劉賜・劉信らは新の追及を受けたが、幸運にも赦免された。地皇3年(22年)、劉縯が反新のために舂陵(南陽郡)で蜂起すると、劉賜もこれに従軍し、湖陽(南陽郡)などを攻撃している。
更始元年(23年)2月、劉玄が更始帝として即位すると、劉賜は光禄勲に任命され、広漢侯に封じられている。同年秋頃に大司徒劉縯が誅殺されると、劉賜が後任の大司徒となり、汝南郡の劉望・荘尤(厳尤)・陳茂を討伐した。しかし、劉賜の軍事能力はさしたるものではなかったらしく、汝南討伐は苦戦し、更始帝により甥の奮威大将軍劉信と交代させられている。その後、更始帝と共に洛陽入りした。
同年9月、河北征伐について誰を派遣するかが問題になった際には、大司馬朱鮪らが劉秀の派遣に反対する中で、劉賜は劉秀の派遣を強く推し、これが更始帝に採用された。また、この時に、劉賜は丞相に任命され、長安へ赴いて宗廟・宮室の修繕を行っている。
更始2年(24年)2月、更始帝が長安に遷都すると、劉賜は前大司馬に転任し、宛王に封じられた。劉賜は宛に駐留し、六部の兵を率いた。しかし、赤眉軍が更始帝に叛き、樊崇率いる部隊が荊州方面へ進攻してくると、六部の兵は戦わずして逃げ散り、宛を防衛できなくなった劉賜は、育陽(南陽郡)[3]へ退却している。
建武元年(25年)、劉賜は武関で更始帝の妻子を保護した上で、洛陽の光武帝(劉秀)に降った。建武2年(26年)、劉賜は慎侯に封じられている。建武13年(37年)、加増された上で、安成侯に転封された。劉賜は、劉秀からその忠誠心を高く評価され、格別の厚遇を受けている。
建武28年(52年)、劉賜は死去し、子の劉閔が後継した。
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