Loading AI tools
ウィキペディアから
劉 汝賢(りゅう じょけん)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府に属した。字は竹波。父方の従兄弟に劉汝明[1]。
保定速成武備学堂[1](北洋行営将弁学堂とも[2])を卒業後、李石曽の京津同盟会に加わり、辛亥革命では王法勤らと活動した[3]。北京政府で陸軍軍人として経歴を重ねる。1912年(民国元年)12月3日、陸軍軍務司砲兵科一等科員[4]。1913年(民国2年)5月4日、砲兵中校[5]。1914年(民国3年)2月、陸軍大学4期入学[1]。卒業後、陸軍省一等科員[1]。また、北洋陸軍大学教員、[1]、保定軍官学校教育長もつとめた[6]。1918年(民国7年)12月17日、砲兵上校[7]。
1923年(民国12年)3月14日、陸軍軍学編輯局局長となる[8]。翌1924年(民国14年)1月、少将。第2次奉直戦争直後の11月11日、参謀本部参謀次長に昇格した[9]。1925年(民国14年)1月27日、参謀総長暫行代理[10]。5月、臨時参政院参議[1]。7月12日、中将[11]。11月13日~15日まで天津で反奉戦争の停戦交渉にて鹿鍾麟、張樹声らと国民軍代表として参加[12]。
1926年(民国15年)1月、許世英内閣において署理参謀総長となっている[13]。3月、国民軍3軍総参議、参謀長[1]。
1928年(民国17年)、国民政府に転じて、やはり参謀次長として11月13日、葛敬恩とともに起用された[14](~翌年4月6日まで[15])。1931年(民国20年)12月19日に軍事参議院参議となる[16]。1932年(民国21年)1月23日、国難会議会員[17]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.