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安芸内藤氏は、建保4年(1216年)に厳島神社領であった安芸国高田郡長田郷の地頭となって以来、その地を代々領した国人である。元種の祖父である内藤中務丞元泰(次郎太郎)の代までに毛利氏の麾下に入っている。
享禄4年(1531年)、内藤元康の子として生まれる。天文3年(1534年)に父が死去したことで幼少ながら家督を継ぎ、毛利元就に仕えた。
天文17年(1548年)の6月18日と20日に行われた、山名理興の拠る神辺城(村尾城)への総攻撃(神辺合戦)における城の柵や塀越しの攻防で武功を挙げ、6月23日に毛利隆元から感状を与えられた。この戦いで毛利元就・隆元父子は家臣に多くの感状を出しており、元種もその内の1人だった。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、33番目に「内藤少輔九郎元種」と署名している[注釈 1][1]。
天文23年(1554年)5月5日、元種は24歳で死去した。事情は不明であるが、元種死去の前年である天文22年(1553年)には既に子の元泰が家領を継いでいる。
嫡子は内藤元泰。また、娘がおり、毛利輝元の養女となった後、豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝と婚姻をしている[2]とされるが、元種の娘の生年(1554年以前)と秀勝の生年(1569年)を考慮すると有り得ない組み合わせであり、秀勝室は毛利氏血縁で長門内藤氏の内藤元種(内藤興盛の子)の娘である。
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