八戸信彦
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八戸 信彦 / 南部 信彦(はちのへ のぶよし / なんぶ のぶよし)は、江戸時代の武士。陸奥国盛岡藩遠野領主。遠野南部家(根城南部家、八戸氏)6代当主(27代当主)。
享保5年(1720年)4月6日、盛岡藩遠野領主八戸信有の長男として、陸奥国盛岡城内遠野屋敷に生まれた。幼名は「鶴寿」。母は、先々代利戡の妹お豊(山田利仲の娘)[1]
享保20年(1735年)6月4日、父信有が病死したので、7月28日、盛岡城に登城して藩主利視に家督相続を許された。8月5日、筆頭家老中野光康の加冠で元服。[2]
元文2年(1737年)5月20日、初めて領地の遠野鍋倉館に入った。元文3年(1738年)正月、領内巡視と大巻狩のために遠野を訪れた藩主利視を、鍋倉館に迎え供応に当たる。11月26日、七戸愛信の娘お村と結婚。元文6年(1741年)正月に正室お通(お村)が死去し、寛保元年(1741年)8月に野田親章の妹お冬と再婚した。
延享元年(1744年)8月23日、盛岡城内遠野屋敷が火災で焼失。延享2年(1745年)12月9日、失火の責任を取らされ隠居を命じられた。(遠野市史第2巻P23)八戸家の家督は、分家附馬牛八戸家義書の長男義顔が、信彦の養女となった妹富子の入り婿となって相続した。
隠居後の信彦は、剃髪して詠帰と号し、遠野元町の家老新田家下屋敷を隠居所とした。盛岡に詰める義顔に代わって信彦が遠野の領政を行う。宝暦5年(1755年)から宝暦7年(1757年)にかけての宝暦の飢饉で、遠野領でも多くの餓死者を出した。遠野に隠居中の信彦は、蔵を開いて施米を実施し、飢えた領民に米や雑穀を施した。[3]
宝暦7年(1757年)に信彦次男丑之助(信精)が誕生。家中に信精を義顔の後継者に望む声が高まり、宝暦10年(1760年)2月に信精が義顔の嫡孫(義顔嫡子義興の嫡子)となり、盛岡遠野屋敷に移る。
安永3年(1774年)7月11日、盛岡の上田下屋敷で死去。享年55。
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