Loading AI tools
ウィキペディアから
全勝キネマ株式会社(ぜんしょうキネマ、1936年5月 設立 - 1941年1月 合併)は、かつて第二次世界大戦前に存在した奈良の映画会社である[1][2]。市川右太衛門の実兄山口天龍が設立、かつて市川右太衛門プロダクションが奈良市内に建設し、閉鎖した撮影所を活用して、映画を量産した[1]。
奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に、1927年(昭和2年)4月、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)が撮影所を建設、稼動していたが、1936年(昭和11年)、同プロダクションが松竹に吸収され、右太衛門は京都双ヶ丘の松竹第二撮影所に入社、「市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所」は閉鎖された。そこで、右太衛門の実兄・山口天龍が同年5月に設立(資本金20万円)、同撮影所を復活、映画の量産を始めた[1][2]。
製作開始にあたって集めた監督に、旧右太プロ在籍者はほとんどおらず、極東映画社から引き抜かれ定着した金田繁、あるいは山口哲平、仁科熊彦、稲葉蛟児のようなレンタル的に1-2本撮って極東映画に戻る者、嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)から引き抜いた山本松男、日活京都撮影所からはかつて旧右太プロでも活躍した志波西果を引き抜き3本撮ったが、おなじく日活多摩川撮影所から引き抜いた宮田味津三と同じく大日本天然色映画へと去った。「旧右太プロ第二部」で脚本家だった山田兼則を監督として採用した。翌1937年にも藤本修一郎、大江秀夫が来て1本だけ撮った。甲陽映画から引き抜いた熊谷草弥は全勝の最後まで定着し、全勝消滅後は引退した。1938年には東亜キネマ京都撮影所や富国映画にいた橋本松男、マキノトーキーから姓丸浩が現れ定着した。寛プロから白秋詩路は1本だけ撮って、大都映画、極東映画に移った。1939年には帝国キネマ芦屋撮影所やアシヤ映画製作所にいた佐藤樹一郎と、全勝生え抜きで脚本を書いていた小林二三夫がそれぞれ1本だけ撮って廃業してしまった。
主演俳優に関しては、市川松之助や実川童といった「旧右太プロ第二部」の主役級を引き続き採用、片岡千恵蔵プロダクションや阪東妻三郎プロダクションで千恵蔵や阪妻を支えてきた杉山昌三九を主演に抜擢、大河内龍は全勝生え抜きのスターとなった。
1940年(昭和15年)9月、「全勝キネマ」もやはり松竹の傘下に入り、松竹から常務取締役に能勢克男、取締役に白井信太郎、城戸四郎らが送り込まれた[1][2]。翌1941年(昭和16年)1月に公開した3本をもって製作を終了、合併して松竹資本の興亜映画株式会社となった[1][2]。最後の作品はもっとも活躍した監督のひとり、熊谷草弥監督の『尾州三勇士』であった(1941年1月22日松竹系で公開)。「あやめ池撮影所」は再び閉鎖され、「全勝キネマ」は消滅までに170本あまりの映画を製作した。トーキーの時代にあって無声映画をつくりつづけ、末年ですら音声トラックに活動弁士の声が入った解説版であった。また松竹傘下に入る際、それまでのストックプリントは北海道の興行者に売却された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.