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飯田線の前身会社の一つである「三信鉄道」とは異なります。 |
信参鉄道(しんさんてつどう)は、愛知県新川から安城、挙母、足助を経て長野県飯田に至る鉄道建設を計画し、工事中に頓挫した鉄道会社である。
- 1900年(明治33年)
- 4月11日 - 新川町新川小学校第一教室で「信参鉄道創立会」を開催。
- 6月13日 - 新川小学校で創立委員会を開催。
- 6月16日以前 - 仮定款を策定。
- 6月16日 - 本定款を策定(※後年の訴訟で名古屋地方裁判所は本定款の成立を認めず)。
- 9月25日 - 信参鉄道を出願。発起人は子爵内藤政共他120名。
- 1901年(明治34年)5月30日 - 新川・足助間の鉄道敷設仮免許を取得[7][8]。有効期間24ヶ月。
- 1903年(明治36年)5月 - 本免許を申請するも翌年まで延期される。
- 1904年(明治37年)- 日露戦争の勃発によりさらに2年延期。
- 1906年(明治39年)
- 3月25日 - 創立総会を開催。取締役に伯爵副島道正ほか6名、監査役に古橋源六郎ほか2名を選定。副島道正を社長とし本社予定地を新川町とする。
- 4月 - 新川・足助間の本免許を申請。
- 12月25日 - 新川・足助間の本免許を取得[11]。
- 1907年(明治40年)
- 6月 - 信参鉄道株式会社設立[12]。
- 11月 - 工事着工[13]。安城町で第1回株主総会開催。
- 12月 - 足助・辰野間および挙母・名古屋間の鉄道敷設申請[13]。
- 1908年(明治41年)7月 - 副島道正が社長を辞任し取締役理事の築山和一が事務を代行。社長後任は南梃三(就任時期不明)[15]。
- 1910年(明治43年)12月 - 足助・辰野間および挙母・名古屋間の鉄道敷設申請が却下される[13]。
- 1911年(明治44年)12月5日 - 軽便鉄道に指定[16]。
- 1914年 (大正3年)
- 5月22日 - 挙母・足助間の免許が取り消される[17]。
- 10月 - 債権者からの申出により枕木などが競売に出される。
- 10月21日 - 矢作・挙母間の免許が取り消される[18]。
- 1915年 (大正4年)
- 1月5日 - 取締役会により当面は社長を置かず理事2名を代表と定める。互選により坂野憲治、築山康平が理事に就任。
- 11月8日 - 名古屋地方裁判所から破産宣告を受ける。
- 1916年(大正5年)
- 3月16日 - 破産管財人が発起人らに対し株式第1回払込未済金を請求。破産管財人が原告となり名古屋地方裁判所へ訴状を提出。
- 8月17日 - 信参鉄道株式会社解散。新川・矢作間の鉄道免許も失効[21]。
- 12月27日 - 訴訟判決。名古屋地方裁判所が原告の請求を棄却。
- 免許線
- 新川・足助線
- 経由地はおおよその予定で細部は確定しておらず、1902年(明治35年)6月26日に愛知県知事宛に提出した測量の希望予定地として新川・高浜・高取・西端・榎前・高棚・福釜・箕輪・赤松・安城・平貴・志貴などを挙げている。また、1914年以降の免許取り消しによって最終的に新川 - 安城 - 矢作間(約13マイル)まで短縮されており、工事などが行われたのはその区間のみである。大正元年当時の地形図にその記録が残り、安城駅にはスイッチバックで駅北部に乗り入れる予定であった。
- 却下線
- 飯田方面
- 足助 - 稲橋 - 名倉 - 津具 - 飯田 - 伊那 - 松島 - 辰野
- 名古屋方面
25噸タンク式機関車4両、一二等合造客車(い1-4)、三等客車(ろ1-20)、三等緩急合造客車(は1-6)、有蓋貨車(子1-16)、有蓋緩急車(丑1-2)、三枚側無蓋貨車(寅1-8)、二枚側無蓋貨車(卯1-8)、二枚側無蓋貨車(辰1-2)客貨車は四輪車[23]
No.16「信参鉄道株式会社工事方法書等」8-9頁『第十門・私設鉄道及軌道・二、普通鉄道・信参鉄道株式会社・明治三十三年~明治三十九年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
- 林口孝「幻の信参鉄道」『碧南市史料』第40巻、碧南市史編纂会、1974年8月。
- 豊田市教育委員会(編)『豊田市史 3 近代』豊田市、1978年。