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桓武朝末の延暦24年(805年)従五位下に叙爵し[1]、翌大同元年(806年)但馬介に任ぜられる。
嵯峨朝の弘仁2年(811年)陸奥守を務めていたが、陸奥出羽按察使・文室綿麻呂と共に、蝦夷の2村(爾薩体・幣伊)を征討することを上奏し、許されている(この時の位階は従五位上)[2]。弘仁3年(812年)正五位下、翌弘仁4年(813年)右少弁に叙任される。弘仁10年(819年)従四位下、弘仁13年(822年)従四位上、天長元年(824年)正四位下と嵯峨朝末から淳和朝初頭にかけて順調に昇進した。
またこの間に地方官として上野守・常陸守を務めたが、上野守の際に加挙(公出挙で各国ごとに定めた貸し出す稲の額(例挙)以上の出挙)を行うが、国内に未納が多く発生し、民は納めることができない租税に苦しんだ。常陸守でも同様に加挙を行うが、やはり民はこれに苦しみ、地方官としての名声を得ることはできなかった。結局下僚の国司による朝廷への告発により、加挙は停止させられた。天長年間初頭に常陸守の任期を終えて帰京した後[3]、天長4年(827年)4月26日に豊嶋の別邸で卒去。享年65。最終官位は散位正四位下[1]。
穏やかな、温かみのある顔つきで、他人に対して怒りの感情を見せることがなかったが、一方で硬軟取り混ぜて適切に処理すること非常に苦手であった。清廉さは仰ぎ見て賞賛すべきほどであり、遠方まで朝廷の政化を進め、地方官として悪い評判が立つことがなかった[1]。
『日本後紀』による。
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