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日本のサッカー選手、監督 (1891-1982) ウィキペディアから
佐々木 等(ささき ひとし、1891年3月19日- 1982年7月23日)は、福島県出身のサッカー選手・指導者、大学教授。サッカー日本代表の監督としては、歴代2代目(選手兼任監督でもあった)に当たる。
1891年、福島県相馬地方にて、貧農の家に四男(11人きょうだいの下から2番目)として生まれた[2]。小学校卒業後、東京に出て丁稚奉公するも長続きせず、転々と奉公先を変え、結局帰郷。乙種農学校に入るも程なくして退学し、新設された准教員養成所に入ったが、正規の教員になるため福島県師範学校に転じた[2]。福島師範学校卒業後小学校教員となるも、知人の誘いで1915年9月、東京高等師範学校特科(体育科)の第1期生として入学した。
スポーツ歴としては、福島師範学校時代に始めた長距離走で活躍。東京高師に入学した後は同校の蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に入り、サッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。1917年に東京で開かれた第3回極東選手権競技大会では、25マイルマラソン(現在のフルマラソンに相当)、10マイル短縮マラソン(現在のハーフマラソンに相当)、そしてサッカーの選手として出場した[2]。サッカー日本代表初の国際試合(国際Aマッチではない)となった中華民国戦(1917年5月9日。芝浦運動場)にもハーフバックの選手として出場した。尚、東京高師在学中には佐倉中学(現・千葉県立佐倉高等学校)でサッカーの指導をした記録が残っている。東京高師卒業後は、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)や東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)の教員を務めた[2]。
1921年に上海で開かれた第4回極東選手権では、選手兼任監督として出場[2][3]。しかし、5月30日のフィリピンとの試合で1-3、6月1日の中華民国との試合で0-4と、2連敗(最下位〔フィリピン、中華民国〈優勝〉とのリーグ戦で3位〕)に終わった。
1924年東京高師に体育研究所が設立されると、遊戯部長になり球技専門の講師となる。1926年に学校体操教授要目改正に際して、当時としては異例の35歳で教授に昇格し[2]、さらに文部省調査委員となり球技の海外からの導入に尽力した。アムステルダムオリンピック(1928年)の際には、文部省留学生となり欧米を歴訪した。
その後、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学。1935〜42年。戸倉ハル・竹之下休蔵らとともに1936年に女子体育振興会、1937年に同校の体育科設立に関わった[4])、中華民国国立南京中央大学(現・南京大学。1943年~45年3月。)、宇都宮師範学校(現・宇都宮大学教育学部。同大学昇格時にも在籍した。1945年4月~。)など様々な学校の教授を歴任し、新設の福島大学の教育学部体育学科に招聘された。68歳で福島大学を定年退職し、その後は71歳で定年退職するまで中京大学で教鞭を執り、体育学部長も務めた[5]。さらにその後も日本女子体育大学で教鞭を執った[2](前身の日本女子体育専門学校でも教師をしている[6])。
1982年7月23日、東京都杉並区で肺血栓により91歳で死去した[1]。
30を超える著書があり、その中には『フットボール』(戦前のサッカー専門書としてはベストセラーになった)もある。
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