伊勢崎藩(いせさきはん)は、上野国佐位郡伊勢崎(現在の群馬県伊勢崎市)の伊勢崎陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に稲垣家が入封した後、前橋藩酒井家(雅楽頭家)の所領となり、支藩が断続的に存在した。天和元年(1681年)に酒井忠寛が2万石で入って以降、廃藩置県まで酒井家が9代約200年続いた。酒井家時代は小藩ながら盛んな文教政策で知られ、藩校のみならず領内には多くの郷学が設けられた[1]。
歴史
稲垣氏の入封
慶長6年(1601年)、上野国勢多郡
なお、長茂は自らが菩提寺として建立した天増寺(伊勢崎市昭和町)に葬られた[4]。稲垣氏の子孫[注釈 2]は他国への転出後も天増寺を菩提寺とし、その境内には稲垣氏累代の墓がある[4]。
前橋藩酒井家と伊勢崎
元和2年(1616年)に稲垣氏が転出した後の伊勢崎領は、秀忠付き家老である酒井忠世(前橋藩主酒井重忠の嫡男)の領地に組み込まれた[1]。酒井家(雅楽頭家)の家督は重忠であるため部屋住料とされるが[1]、その所領は5万2000石に及んだ。
忠世を大名(那波藩主)であったとする見方があり、慶長14年(1609年)には善養寺[注釈 3]を居所として2万石を支配した[6]。元和2年(1616年)に勢多郡・佐位郡の2郡内で[6]3万2000石を加増されたが[6][7]、この中に伊勢崎領や、牧野忠成が転出した後の大胡領[6]が含まれる。この時の加増によって、忠世は伊勢崎藩に5万2000石で入封したとする捉え方もある[8][注釈 4]。
翌元和3年(1617年)、重忠が死去すると忠世は家督を継ぎ、従来の所領と父の遺領を併せ、前橋を居城とした[9]。これにより忠世は前橋藩8万5000石の藩主になった(のちに12万余石まで加増)[9]。
寛永14年(1637年)、前橋藩主酒井忠清(忠世の孫)は、弟の酒井忠能に上野国(佐位郡・那波郡)・武蔵国のうち2万2500石を分与した[10]。これにより、前橋藩の支藩として伊勢崎藩が成立した[1](那波藩とする解釈もある[10][注釈 5])。寛文2年(1662年)6月に忠能は信濃小諸藩に移封され[1]、伊勢崎領は再び前橋藩領となる[1]。
伊勢崎藩の確立
天和元年(1681年)、前橋藩主酒井忠挙(忠清の子)は、弟の酒井忠寛に伊勢崎領2万石を分知した[1]。これにより、前橋藩酒井家の支藩的存在として伊勢崎藩が成立し、幕末を経て明治の廃藩置県まで続くこととなる。なお、本家は寛延2年(1749年)に姫路藩に移封された。
藩政は初代藩主・酒井忠寛の時代に確立する。稲垣氏時代の陣屋は破却されていたため、新たに伊勢崎陣屋を建設した。その後、藩は財政難に陥ったが、3代藩主・酒井忠温(ただはる)の時代に行なわれた藩政改革により再建された。忠温は安永4年(1775年)に藩校学習堂を開くなど文治政策を進めた[1]。以後の藩主も文教政策をすすめ、五惇堂や遜親堂など多くの郷学校を育成したことで知られている[1]。
幕末には本家の姫路藩[注釈 6]が佐幕派だったため新政府から警戒されたが、8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還により、忠強の跡を継いだ酒井忠彰は知藩事となった。明治4年(1871年)の廃藩置県により伊勢崎藩は廃藩となり伊勢崎県となった。伊勢崎県は同年内に群馬県(第1次)に編入され、その後は熊谷県を経て1876年(明治9年)に群馬県の一部となった[1]。
歴代藩主
- 稲垣家
- 1万石。譜代。
- 酒井家
- 5万2000石。譜代。
- 酒井家
- 2万2500石。譜代。
- 酒井家
- 2万石。譜代。
幕末の領地
脚注
参考文献
外部リンク
Wikiwand in your browser!
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.