仲町 (館林市)
群馬県館林市の町名 ウィキペディアから
地理
歴史
1969年(昭和44年)11月1日に第二次住居表示が実施され、大字館林字本紺屋町・新紺屋町・材木町・竪町と、谷越町・目車町、鞘町・石町の各一部が合併し仲町となった[5]。
旧館林城下町名の歴史
本紺屋町 (ほんこんやちょう)
古くは紺屋町と呼ばれていたが、西部に新紺屋町ができてからは本紺屋町と呼ばれるようになった[5]。染色業者の居住地域で、本新両紺屋町の境には堀へつながる用水路があり、橋がかかっていたという[5]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[6]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が59軒、男105人、女110人、馬15匹であった[7]。宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書(よろずききがき、山田文書)」では、家屋56軒中寺3軒とされている[7]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳(『館林藩史料』)」では、町の長さ284m程度(2町36間余)、家数42軒、その他に町役人無役屋敷、定使無役屋敷が各1軒あった[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域2町6反余り[7]。
新紺屋町 (しんこんやちょう)
本紺屋町の西部に後に発達し、新紺屋町と呼ぶようになった[5]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[6]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が36軒、男56人、女53人、馬5匹であった[7]。宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書」では、家屋50軒中山伏1軒とされている[7]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ271m程度(2町29間余)、家数24軒[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域2町余り[7]。
材木町 (ざいもくちょう)
材木問屋や材木商の居住地であったと言われる[8]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[8]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が56軒、男110人、女85人、馬8匹であった[8]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に木挽職4人が住み、同年の職役は40人と定められていた[8]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ256m程度(2町21間余)、家数38軒、その他に町役人無役屋敷、定使無役屋敷が各1軒あった[8]。嘉永元年(1848年)の「館林城下地図」では家数49軒[8]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域3町1反余り[8]。
人口
小・中学校の学区
行政
- 館林簡易裁判所
- 館林税務署
- 群馬県東部県民局 館林行政県税事務所
- 館林市 保健福祉センター
- 館林市 青少年センター
- 館林市 シルバー人材センター
- 館林市民センター分室
- 本紺屋会館
- 仲町北区会館
経済
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- 店・企業
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地域
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健康
- 医療機関
- 石川歯科クリニツク
- 川田耳鼻咽喉科医院
相談
- 藤井弦建築設計事務所
- 石塚泉会計事務所
- 蛭間真二司法書士事務所
施設
- 記念館
- 毛塚記念館
- 企業博物館
- 宗教
名所・旧跡
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交通
鉄道
当町に鉄道駅はない。隣接する本町に東武鉄道館林駅がある。
バス
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道路
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出身・ゆかりのある人物
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脚注
参考文献
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