寺田 勇吉(てらだ ゆうきち、1853年7月17日(嘉永6年6月12日[1]) - 1921年(大正10年)10月11日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚、教育者。位階および勲等は正四位・勲四等。
東京高等商業学校(一橋大学の前身)、日本橋高等女学校(日本橋女学館高等学校の前身)校長、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)女子部長、九段精華高等女学校長を歴任した。
経歴
四谷の幕臣寺田高吉の次男として生まれる。戊辰戦争の際には彰義隊に加わった[1]。1970年(明治3年)より大学南校(開成学校)で、ドイツ学・鉱山学を学び、1874年(明治7年)より鉱山局に出仕した[1]。1878年(明治11年)より太政官に出仕し、東京外国語学校教諭、大学予備門教諭、第一高等中学校教諭を務め、外国語教育に当たった[3]。欧米諸国への視察を経て、文部省参事官・第一高等学校教授、文部書記官・文部省参事官、視学官を歴任[3]。1902年(明治35年)、高等商業学校校長に就任した[3]。
その後、東京市教育会の設立や日本橋高等女学校の創設に加わった[3]。1905年(明治38年)、精華学校を開校し、1911年(明治44年)には九段精華高等女学校を開校した[3]。さらに日本体育会体操学校女子部の運営にもあたった[3]。大正10年10月11日卒去。墓所は音羽護国寺共葬墓地。
栄典・授章・授賞
著作
- 著書
- 『育児論』 間室親遠、1892年4月
- 瀧澤利行編 『近代日本養生論・衛生論集成 第13巻』 大空社、1993年4月、ISBN 4872362551
- 『教育叢書 教育制度』 普及舎、1896年11月
- 『学校改良論』 南江堂、1898年11月
- 『学校改良論』 大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、1993年3月、ISBN 4872366239
- 寺崎昌男、小熊伸一編 『日本の教師 17 校長として、リーダーとして』 ぎょうせい、1994年9月、ISBN 432403558X - 抄録
- 『商業軌範』 普及舎、1902年11月(3冊)
- 『教育統計学講義』 千葉県庁第二部、1906年4月
- 『教育統計学』 同文館、1906年4月
- 『寺田式 国民健康法』 開発社、1912年4月
- 『寺田勇吉経歴談』 精華学校、1919年5月
- 『健康旅行』 玄文社、1920年7月
- 『学校より家庭へ』 精華学校、1921年2月
- 『学校より家庭へ 続編』 精華学校、1922年2月
- 訳書
- 『日本家屋保険論』 1878年6月
- 森荘三郎著 『経済資料 日本家屋保険国営論』 有斐閣、1925年5月
- 國學院大學日本文化研究所編 『近代日本法制史料集 第十四 マイエット答議一』 國學院大學、1993年8月、ISBN 4130979647
- 『普国「ポッテスダーム」「フランクフルト」両県建築警察条例』 警視局、1880年3月
- 『統計条例草案』 相原重政合訳、1881年3月
- 『財政原論』 平塚定二郎共訳、八尾新助、1891年10月
- 編書
- 『万国統計表』 嘉村今朝一共編、山中市兵衛、1882年11月
- 『独英和 三対字彙大全』 高良二共訳、共同館、1886年1月
- 『独英和 三対小字彙』 保志虎吉共著、共同館、1893年9月
- 『商工修身教科書』 古川義天共編、中外図書局、1905年3月(4冊)
脚注
参考文献
関連文献
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