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中藤 敦(なかふじ あつし、1902年10月15日 - 1966年10月18日)は関西で活躍した写真家である。 キリスト教の伝道師から 転職後、小石清との出会いにより、1937年(昭和13年)に、浪華写真倶楽部に入会し、戦時中は、小石清らと共に内閣情報局の元で写真協会(日本報道写真家協会)に属し[1]、「写真週報」[2]などで 報道写真[3][4]を撮った。特に戦後の浪華写真倶楽部再建を花和銀吾、田中正規、本庄光郎らと共に労し、復活させた一人である。小石清、安井仲治等から指導・刺激を受け、独自のゴム印画を制作した。
中藤敦(旧姓:山口)は1902年広島市生まれ、広島県立工業学校を卒業後、就職したが病を得、療養生活中にキリスト教に出会い、1922年(大正11年)10月に洗礼を受けた[5]。その後セブンスデー・アドベンチスト教団神学校「天沼学院」を卒業し、札幌で伝道生活を送る[6]。1923年(大正12年)の関東大震災では東京の教会にて被災。結婚後、東京市外大森町にある大森講義所で伝道師として従事する。1929年(昭和4年)~1931年、門司教会で副牧師として働いた[7]。七年間の伝道生活の後、大阪砲兵工廠に就職。職場にあった写真クラブO.C.G.(小石清指導)に顔を出し、写真と接点を持つ。プラモデル屋、豆乳屋、などを営む。浪華写真倶楽部に入会後、同会展も含めて、いくつかの写真展で入選を果たし、「飛騨の顔」「飛鳥路」「淡路島」「隠岐の島」等の個展開催した。[8]戦後の同倶楽部で、指導員、浪展審査員として後輩を育成した[9]。その中には津田洋甫[10]、高田誠三などがいる。また独自の暗室技術[11]によりカラーのゴム印画制作に取り組んだ[12]。報道写真、風景写真などの作品を写真雑誌等に多数発表。「アサヒカメラ」では撮影地案内などを、「カメラ毎日」では、指名質問というコーナーで交代で愛読者からの質問に答え、撮影のコツなどを回答した。写真画材店の経営もしていた。戦後、日本報道写真連盟の創設に参加して昭和37年まで理事として活躍、カラー写真展では日本で先鞭をつけた。関西カラーラボ協会理事長、また毎日広告デザイン賞では審査員を務め[13]、大阪府職業補導所写真科講師、大阪写真材料商組合理事などを歴任した。浪華写真倶楽部で、戦後間もない時期の代表格の一人として活躍し、関西写壇に欠かせない写真家の一人であった。キリスト者としては1948(昭和23)年、日本基督教団玉出教会に転入会し[14]、1966年、64歳で召天した。死後妻の中藤まつゑも写真家となった。
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