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中臣 金(なかとみ の かね)は、飛鳥時代の官人。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓は連。中臣糠手子(なかとみのぬかてこ)の子であり、中臣可多能祜の孫である。鎌足の従兄弟にあたる。天智天皇、大友皇子(弘文天皇)に重臣としてつかえ、壬申の乱で敗れて処刑された。冠位は大錦上・右大臣。
中臣氏は神事・祭祀を司った氏族である。金も天智天皇9年(670年)に山御井の傍らで神々を祀った際祝詞を宣した。しかし、一族の指導的な存在であった藤原(中臣)鎌足の死後、一族の中心人物として急速に出世する。翌天智天皇10年(671年)1月5日には、天皇の勅命により神事を宣べると共に、同日に右大臣に任じられた。同時に大友皇子(弘文天皇)が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、蘇我果安、巨勢人、紀大人が御史大夫に任命された。このときの金の冠位は大錦上であった。
同じ年の10月に天智天皇が重病となり、大海人皇子(天武天皇)が出家して吉野に赴いたとき、中臣金は蘇我赤兄、果安と共に皇子を菟道(現宇治市)まで見送った。
11月23日、大友皇子と上記の左右大臣、御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。すなわち、大友皇子が香炉を手にして立ち、「天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて五人が順に香炉を取って立ち、「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを」などと泣きながら誓った。ここでいう「天皇の詔」の内容ははっきりしないが、天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。同月29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。内容は不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
大海人皇子は天武天皇元年(672年)6月に挙兵して壬申の乱を起こした。戦局が大友皇子側に不利となり、7月22日に瀬田で最後の決戦が行われたとき、中臣金は大友皇子に従って出陣した。この戦いで敗れると、金は逃げた。大友皇子は7月23日に自殺に追い込まれ、金はその後に捕らえられた。『日本書紀』は7月24日の条文で「左右大臣諸々の罪人を探り捕らえた」と記す。一か月後の8月25日に、近江国浅井郡田根(現在の滋賀県東浅井郡北部)で斬り殺された。子孫は流罪になった[2][1]。
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