中立労働組合連絡会議
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中立労働組合連絡会議(ちゅうりつろうどうくみあいれんらくかいぎ)は、かつて存在した日本の労働組合のナショナルセンター。略称は中立労連。左派労組の総評・新産別、右派労組の同盟どちらにも属さない中道労組として存在、1979年3月には新産別と全国労働組合総連合(総連合)を組織し、総評と同盟の間にたって、全日本民間労働組合協議会(全民労協)の結成を推進した。1987年11月、全民労協が全日本民間労働組合連合会に改組されることにより、労働戦線統一が進んだとして中立労連は解散した。さらに全日本民間労働組合連合会は1987年に総評と合流し、1989年に労働4団体(総評・同盟・新産別・中立労連)の統合 した日本労働組合総連合会(連合)となった。総評内の共産主義排除に反発した者らは全労連として分離した[1][2][3]。
1956年(昭和31年)、第27回メーデーにおいて日本労働組合総評議会(総評)と全日本労働組合会議(全労会議)のどちらのナショナルセンターにも与しない中立労組がメーデー常任実行委員会に影響力を行使するため、3月22日に全国中立労働組合懇談会を結成した。そして9月8日の第5回懇談会で改組し、13組合、75万人の組合員で中立労働組合連絡会議として発足した。[4]
1970年(昭和45年)10月、中立労連拡大全体会議で運動方針に準ずる「活動目標」が設定。1974年(昭和49年)には定期大会制度が採用され、中立労組の協議会からナショナルセンターとしての役割へ移行した。
1979年(昭和54年)3月、全国産業別労働組合連合(新産別)と全国労働組合総連合(総連合、現在の全労連とはちがう)を組織し、その後1982年(昭和57年)12月に結成した全日本民間労働組合協議会(全民労協)を支え、労使協調路線からの労働戦線の統一に努力した。
1987年(昭和62年)9月29日、赤坂東急ホテル(東京)で第14回定期大会を開催し、「労働戦線の統一」が果たされたとして解散を決定した。大会決定通り、全民労協が全日本民間労働組合連合会に改組される前日の11月19日に解散した。このさい、中立労連の残存任務を処理し、当分の間、旧加盟組合の暫定的な連絡機関とするため、10月28日に「中立労組連絡会」(中連)を設置することになった[5]。
解散を決定した第14回定期大会(1987年9月29日)直前の加盟単産を以下に示す[6]。
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