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中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月6日 - 1959年(昭和34年)4月9日)は、大正・昭和時代の実業家[1]。古河財閥の幹部として、古河電気工業社長、日本軽金属社長などを務めた[1]。旧姓・赤塚。
滋賀県高島郡下古賀村(現在の滋賀県高島郡安曇川町字下古賀)の庄屋の五男として生まれる[2]。地元の小学校を卒業後、隣村の村役場の雑用係として働いていたが、足尾銅山の調馬係・中川武三に請われて養子となり、1889年に琵琶湖疏水工事に従事していた人夫400人を足尾銅山に移す作業を武三と請け負い、その会計と日誌係を担当する[2]。
銅山の経営者・古河市兵衛の誘いで、日本橋瀬戸物町の市兵衛の店で働きはじめ、23歳くらいの頃、向学心が認められて商工中学校や早稲田専門学校へも通ったが、井上公二、岡崎邦輔、山口熊野ら店の上司たち同様米国留学を希望し、中退して1903年に渡米、ペンシルベニア大学、エール大学で学び、6年間滞在する[2]。
帰国後、足尾銅山の営業部販売係長、本社電線係長を務め、フィリピン、インド、オーストラリアへ海外販路開拓にも出向く[2]。1914年に横浜電線常務に就任、1917年古河銀行発足に当たり専務取締役に就任、1921年、古河電気工業専務(のち社長)、1924年横浜護謨製造社長、富士電機社長となる[1]。1940年に日本軽金属社長、古河合名理事も歴任し、横浜商議所会頭も務めた[1]。戦後は公職追放され、1951年の解除後は古河系企業相談役となった[1]。
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