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中山 信安(なかやま のぶやす、1832年8月22日(天保3年7月27日)[1] - 1900年(明治33年)6月19日[2])は、幕末の幕臣、明治期の内務官僚。茨城県権令。通称・修輔[1]、修助[3]。
相模国で生まれる[2]。漢学を東条琴台に[4]、蘭学を緒方洪庵に学び、開国論を唱えた[2][5]。神奈川奉行所定番役、新徴組支配定役、御蔵奉行、鉱山取締、佐渡奉行所組頭などを務めた[1][2][5]。戊辰戦争が始まると、奉行が退去した後に迅雷隊を組織[2]。会津藩士などの来島に対しその駐屯を拒否した[2]。新政府に対して統治者の派遣を要請し、中山が佐渡県権判事の辞令を受けた[4]。慶応4年7月3日(1868年8月20日)御雇・佐渡国取締となる[3]。明治元年11月(1868年-1869年)越後府権大参事・奥平謙輔が佐渡に渡り、中山は金塊などを引き渡した[2][4]。明治2年2月13日(1869年3月25日)佐渡取締を免ぜられた[3]。
明治5年5月30日(1872年7月5日)新治県参事に任じられ、1873年12月27日、権令に昇進[3]。人民の意見を聞き、印刷機による布告の印刷配布、師範学校の創設、土浦病院の設立などを進めた[5]。1875年5月7日、新治県が廃止され、茨城県権令に転じた[3]。師範学校の創設、県庁勧業課の設置、勧業試験場の創設などに尽力[5]。1876年12月、地租改正に反対して那珂郡で農民騒擾が起こり、その鎮圧のため囚徒を解放して用いたが、それが越権行為として責任を問われ、1877年1月12日、免本官となり位記返上を命ぜられた[3][5][6]。
妻・幸子は薩摩藩士の嵯峨根季重の娘で、幕末に幕府と薩摩藩の関係が悪化したため、彼女を離縁しようとしたが、彼女は承知せずに餓死しようと図り、中山は離婚を取りやめた[5][6]。
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