日本の青森県下北地方の方言のひとつ ウィキペディアから
下北弁(しもきたべん)または下北方言(しもきたほうげん)は、青森県下北半島の大部分の地域(むつ市、下北郡、上北郡の横浜町、野辺地町北部)で話される日本語の方言である。東北方言の一つで、北奥羽方言に属す。下北半島は旧南部藩域であり、下北方言は南部方言の一部でもあるが、独自の方言を発達させており他の南部方言とは違いが大きい[1]。本州最北端の地であるが、海上交通を介した他地域との交易の盛んだった開放的な地域であるため、津軽方言や北海道方言と似た面もあり、一方で下北独自面もみられる[2][3]。
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藩政時代、下北半島は南部藩(盛岡藩)に属していた。当時は青森ヒバや海産物の積み出しで賑わい、南部藩の重要な湊が開かれていた(下北七湊)。これらの産物は北前船によって上方に運ばれ、上方からは珍しい品々がもたらされた。また、物とともに京都祇園祭の流れをくむ祭り(田名部まつり、川内八幡宮例大祭、箭根森八幡宮例大祭など)、歌舞伎(福浦歌舞伎)などの文化がもたらされた。その陰には、上方や北陸地方の商人・船乗り・漁民の往来や移住があった。
また当時、南部藩と津軽藩は激しい対立関係にあったにもかかわらず、下北の人は海を介して津軽の人々と交流していた。これは、下北地方(代表として大湊ネブタがある)で古くからネブタが行われてきたことからもうかがえる。交流は上方や津軽のみならず、北海道の松前藩との間でも盛んであった。
近年においては、本州最北端である下北半島は海に囲まれた「陸の孤島」「最果て」と言われるが、下北の人にとって海は物理的に他の地域とを隔てるものではなく、有効に利用できるものであった。陸上交通が発達した昭和に入ってからも、漁民は漁船を使って北海道(主に渡島半島)や津軽方面へ出かけるといったことがあった。
このようにして、下北の言葉は、下北半島の南から陸上を伝って伝播したというより、海を介していろいろな地域の言葉の影響を受けながら形成されたものと考えられる[2]。
戊辰戦争後、会津藩の斗南藩(となみはん)移封に伴い、約1万5千人以上の会津の人々が下北にやってきた。この影響で、下北弁には南奥羽方言的な特徴も垣間見られる[2]。
音韻の特徴は北奥方言に共通する。
特徴としては、待遇表現や丁寧な文末表現があること、一人称に「おら」をあまり用いないことなどがある(昭和初期までは使っていたようである)
下北弁には南部弁や津軽弁と共通する語も多く存在するが、下北弁特有の言葉もある。
下北弁には日本の他地域と共通する方言単語がある。
1744年(延享元年)11月14日、千石船多賀丸(1,200石)が佐井湊(下北郡佐井村)を出航した。佐井湊を出たのち、多賀丸は大畑湊(むつ市大畑町)に立ち寄り、大豆・昆布・鰯糟などを積み込んで江戸に向かった。航海の途中、不運なことに多賀丸は暴風に遭って難破した。難破した多賀丸は漂流し、翌1745年(延享2年)4月13日、多賀丸は千島列島の温禰古丹島に漂着した。
多賀丸の乗組員17名の大部分が下北半島の出身であった。温禰古丹島に漂着時には、すでに6名が死亡しており、次いで多賀丸船主の竹内(伊勢屋)徳兵衛も亡くなった。残りの10名はカムチャツカ半島に送られた。10名は厚遇された上にロシア名までもらった。この内の3名は現在の岩手県宮古市の出身であったという。
日本人漂着の報を聞きつけたロシア政府は、この中から優秀な者5人を選び、首都ペテルブルクに招き、日本語学校の教師にした。やがて彼らはペテルブルクにてロシア人と結婚し、家庭を築いたが、1754年(宝暦4年)に日本語学校イルクーツク移転にともない、彼らもまた移動を余儀なくされた。
このとき、イルクーツクでロシアで初の「露日辞典」が編集された。編集にたずさわったのは、日本語教師となった多賀丸の船乗りたちであった。その日本語は、下北や宮古のことばであった。1792年にロシアの通商アダム・ラクスマンが根室にやってきたが、このとき通事たちが携帯してきた辞書はこの「露日辞典」だったといわれる。
下北地方を舞台にしているにもかかわらず、下北弁の方言指導がついた作品は数少ない。どういうわけか津軽弁や南部弁の方言指導が付けられることも多々ある。以下の作品は下北弁の方言指導がつけられた作品である。
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