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1902-1934, 洋画家 ウィキペディアから
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家[1]。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。同じ洋画家の三岸節子(旧姓・吉田)は妻、作家の子母沢寛は三岸の異父兄にあたる。
北海道札幌区(現 札幌市)出身。祖父・梅谷十次郎は元御家人で、石狩の漁村厚田村の網元だった(子母澤寛の項に詳しい)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる[2]。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる[3]。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
1916年に父を亡くしてからは母イシが質屋に住み込みで働き始め、札幌で所帯を持っていた異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛)に育てられる。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を卒業後、画家を志して1921年に上京。1923年、第1回春陽展に『檸檬持てる少女』が入選。翌1924年、第2回春陽展に『兄及ビ彼ノ長女』などを出品、春陽会賞を首席で受賞。同年、吉田節子と結婚。初めアンリ・ルソー風の素朴な画風から出発し岸田劉生の東洋趣味への傾倒を経て、やがては中国旅行(1926年)の体験を元にしたエキゾティックでロマンティシズム溢れる画風に転じた。
1930年、福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加する。最年少の会員となり、独立展で『面の男』など道化をモチーフにした作品を数多く発表した。この頃から画面は、ジョルジュ・ルオー風のフォーヴィズムの影響が顕著になって来る。さらに1932年に開催された「巴里・東京新興美術同盟展」に衝撃を受けたことを契機に、三岸のその画風は前衛主義に急速に接近して行った。
抽象形態を構成した『コンポジション』や線条様式の『オーケストラ』などの試作により純粋主義・機械主義を賛美した三岸はその後、シュルレアリスムに移行し1934年に連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する(死後の世界をイメージしたものとも言われる)。中でも『海と射光』は単純化した構図に白日夢のような幻想的な光景を現出し、乾いたエロティシズム・東洋的な叙情をも漂わせた晩年の三岸の代表作と言ってよい作品である。その後も三岸は精力的な活動を続けたが、同年7月に旅行先の名古屋で胃潰瘍のため吐血し31歳の短い生涯を終えた。
三岸は村山槐多・古賀春江らとともに詩作も行う画家として知られ、散文詩『上海の絵本』、『蝶と貝殻』などの作品を残している。三岸ならではの色彩感と唯美性、そして硬質な叙情といったものがこれらの作品の特色をなしている[4][5]。創作を「主観的感情の表現」と定義づけた三岸にとっては、絵画と詩は互いに補完し合う関係であったものと思われる[4]。
1967年(昭和42年)9月、現在の北海道立三岸好太郎美術館の前身北海道立美術館三岸好太郎記念室が開館。
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