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ワレヘム(オランダ語: Waregem [ˈʋaːrəɣɛm]、ときにWaereghemとも)は、ベルギーのウェスト=フランデレン州に位置する自治体。ワーレヘム、ワレゲムとも表記される。コルトレイクとヘント間のレイエ川渓谷に築かれた。コルトレイク行政区に属し、ベーフェレン(Beveren)、デッセルヘム(Desselgem)、シント=エローイス=ファイフェ(Sint-Eloois-Vijve)、ワレヘムの四町から成る。44.34km2に2006年1月1日現在で3万5852人が暮らしており、人口密度は809/km2。
森林が広がるこの地域には、古代ローマ成立以前からレイエ川(Leie、フランス名:リース川 Lys)に沿って人が定住していた。その証拠として、この地域では銅貨やガロ・ローマ文化の遺物が出土している。また、シント=エローイス=ファイフェはローマ街道のカッセル-トンゲレン線とバヴェ-アウデンブルフ線が交差する交通の要衝にあった。
10世紀、ワレヘムの大部分はヘントの聖ピーター修道院の所領となったが、10世紀終わりにはフランドル伯ボードゥアン4世がコルトレイクへの前進基地とした。11世紀にはフューダリズム(中世封建政治)のもと、デンデルモンデやトゥルネーの地主によって土地が分割されていった。そのころ、ワレヘムの住民はフランドル圏のほかの地域と同じく百姓、紡績工、織屋などで構成されていた。13世紀の税務書類から、当時強固な経済基盤を擁していたことが分かっている。1635年に独自に市場を開ける権利を得ようと画策したこともあったが、近隣の町の反対に遭った。しかし、1784年に神聖ローマ皇帝 ヨーゼフ2世は土曜市を開くことを許した。
中世の土地の所有構造の大部分は、町の人口が4500人に達する18世紀の終わりまで変わらなかった。コルトレイク-ヘント間に主要道が開通すると、ワレヘムには馬車用の厩が建てられた。フランス革命はこの地に厳しい宗教の制限を生む一方、近代的な行政構造と政治的自立をもたらした。旧来の繊維業は19世紀中に衰退したが、レイエ川を利用したアマの水運は20世紀に入っても続いた。ワレヘムが公式に都市のタイトルを得たのは2000年1月1日のことであった。
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