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イタリアのサッカー選手、監督 (1960 - ) ウィキペディアから
ワルテル・ゼンガ(Walter Zenga, 1960年4月28日 - )は、イタリア・ロンバルディア州ミラノ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時のポジションはゴールキーパー。
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2016年のゼンガ | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | Walter Zenga | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
イタリア ルーマニア | |||||
生年月日 | 1960年4月28日(64歳) | |||||
出身地 | ミラノ | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 84kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1969-1971 | マカッレシ | |||||
1971-1978 | インテル・ミラノ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1994 | インテル・ミラノ | 328 | (0) | |||
1978-1979 | → サレルニターナ (loan) | 3 | (0) | |||
1979-1980 | → サヴォーナ (loan) | 23 | (0) | |||
1980-1982 | → サンベネデッテーゼ (loan) | 67 | (0) | |||
1994-1996 | サンプドリア | 41 | (0) | |||
1996-1997 | パドヴァ | 21 | (0) | |||
1997-1999 | ニューイングランド・レボリューション | 47 | (0) | |||
通算 | 530 | (0) | ||||
代表歴 | ||||||
1984-1986 | イタリア U-21 | 15 | (0) | |||
1987-1992 | イタリア | 58 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1998-1999 | ニューイングランド・レボリューション | |||||
2000-2001 | ブレーラ | |||||
2002-2003 | ナツィオナル・ブカレスト | |||||
2004-2005 | ステアウア・ブカレスト | |||||
2005-2006 | レッドスター・ベオグラード | |||||
2006-2007 | ガズィアンテプスポル | |||||
2007 | アル・アイン | |||||
2007 | ステアウア・ブカレスト | |||||
2008-2009 | カターニア | |||||
2009-2010 | パレルモ | |||||
2010 | アル・ナスル | |||||
2011-2013 | アル・ナスル | |||||
2013-2014 | アル・ジャジーラ | |||||
2015 | サンプドリア | |||||
2015–2016 | アル・シャアブ | |||||
2016 | ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ | |||||
2017-2018 | クロトーネ | |||||
2018-2019 | ヴェネツィア | |||||
2020 | カリアリ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
9歳の時、友人のクラウディオ・アンブにGKを探していたマカレージの練習に連れていかれたことから、GKとしてサッカーを始めた[1]。
1971年、11歳でインテルの下部組織に加入した[2]。1978年にサレルニターナ、1979年にサヴォーナ、1980年から2シーズンはサンベネデッテーゼへとそれぞれ貸し出された[1]。サンベネデッテーゼでの活躍により、1982-83シーズンからインテルへと複帰したが、このシーズンはイタリア代表GKであったイヴァノ・ボルドンの控えだった[1]。
1983-84シーズン、9月11日のサンプドリア戦でセリエAデビュー[1]。以降、不動の守護神として活躍[3]、スパイダーマンの異名を取るなど[2]、サポーターから人気を集めた。1988-1989シーズン、9年ぶりとなるスクデット獲得に貢献した。また1990-91シーズン、1993-94シーズンと2度UEFAカップを制した[2]。インテルでは通算471試合に出場[3]、2018年にはGKとして初のチーム殿堂入りを果たした[2]。
1994-95 シーズンに当時イタリア代表の正GKであった、ジャンルカ・パリュウカとトレードされる形でサンプドリアへ移籍した[4]。1995-96シーズン、十字靱帯断裂により殆どの試合を欠場した[1]。1996-97シーズン、セリエBのパドヴァでプレーしたのを最後にイタリアを離れた。
1997年から、創設されたばかりのアメリカのMLS、ニューイングランド・レボリューションでプレーし、2度MLSオールスターのメンバーに選出された。1999年に現役を引退した。
イタリア代表としては58試合に出場[2]、1986年のメキシコW杯では第3GK扱いで出場機会は無かった[1]。
アゼリオ・ビチーニ監督の下で正GKの座を掴み1988年の欧州選手権のベスト4、1990年のイタリアW杯では連続無失点記録(517分)を打ち立てるなど[2]3位入賞に貢献し、1990年のバロンドール投票では第12位となるなどの活躍を見せていた[2]。しかし大会中、準決勝のアルゼンチン戦では、ロングボールに対しての判断ミスもあって、クラウディオ・カニーヒアにゴールを許して同点とされ、PK戦の末敗戦した[5]。
1992年にアリゴ・サッキ監督が就任すると、1992年6月4日USカップのアイルランド戦への出場を最後に[6]、2度と代表に招集される事は無かった。
2016年7月30日、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCの監督に就任した。
ユヴェントスのGKであったステファノ・タッコーニ とのライバル関係がよく知られているが、「それらはメディアが勝手につくりあげたものである。」と話した[1]。
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