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ローランド・アッシュ
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ローランド・アッシュ(Roland Asch, 1950年10月12日 ー )は、ドイツのレーシングドライバー。ドイツツーリングカー選手権(DTM)において活躍。1990年代のドイツのモーターレースシーンの代表的人物の1人。メルセデスのドライバーとして活動したことで知られ、日産とも関係が深いドライバーでもある。 旧西ドイツ シュトゥットガルト近郊のアマーブッフ出身。

経歴
要約
視点
アッシュのキャリアは1973年にスラロームで始まり、1981年にヒルクライミングに移ってドイツのチャンピオンに。 DTMの下部トロフィー部門でサーキットを走った。DTMには1985年から参戦しており、1988年にはメルセデス・ベンツ190Eをドライブしてシリーズ2位となった[1]。1993年にも再びシリーズ2位となり、メルセデスベンツの主要なドライバーの1人となる。
1995年からは、2,000ccクラスのセダンによって行われるスーパーツーリングカー規定のドイツ・スーパーツーリング選手権(STWカップ)にフォードから参戦[2]。フォード・モンデオをドライブした。1勝してシリーズ8位につけたが、翌年フォード勢は年間を通して低迷し、アッシュも苦戦を強いられた。フォードはシーズン終了後に撤退したため、1997年はケケ・ロズベルグ率いるチーム・ロズベルグが運営する日産に移籍。チームメイトのサッシャ・マーセンと共に日産・プリメーラをドライブした[3]。優勝こそなかったが、高い完走率で安定的にポイントを獲得。再びシリーズ8位となった[4]。
1998年も引き続き日産に残留。マーセンに代わり日本でレース活動していたミハエル・クルムが新しいチームメイトとなった。この年はモデルチェンジした新型プリメーラが導入。マシンのポテンシャルも大幅に上がってアッシュは何度も表彰台に登り、ニュルブルクリンクでは2年振り、2度目となるSTW優勝を飾った。この勝利は日産勢にとっても2年振りのことで、95年シーズンにレース中のアクシデントにより亡くなってしまったキース・オドールがアヴスで挙げて以来のことであった。
翌年は、日産がイギリスツーリングカー選手権 (BTCC)に集中することになり撤退。アッシュはオペルのイルムシャーに移籍した。しかし、優勝を挙げることは出来ず、表彰台にも登る事はできなかった。2000年はSTWが消滅して再び、DTMが新規規定のレースとして開催されたが、アプト・スポーツラインからスポット参戦したのみでその後は参戦しておらず、ポルシェ・カレラカップやニュルブルクリンク24時間レースに活動を移すことになった。
ニュルブルクリンク24時間レースにはニスモのサポートを受けて参戦するチーム・ファルケンより2002年から日産・スカイラインGT-Rで参戦し、この年は4位だったが、翌年はディアク・ショイスマンと木下隆之、田中哲也と共に2位に入った。
ツーリングカーで活躍する共に、アッシュはポルシェシリーズにも参戦。 1988年と1989年にドイツ ポルシェ・944ターボカップで2回チャンピオンを獲得し[5] 、1991年には自身3度目のタイトルを獲得した。
すでに50代となっていたが、ポルシェ・カレラカップで2003年まで活躍し、2004年のシーズン中に1度レース活動を中断したが、出身地のアマーブッフでディーラーを経営しているRS-Line フォードのマシンでヨーロッパツーリングカー選手権に参戦した。
日産・ファルケンチームの主力ドライバーとして活躍を続ける他、セアト・レオンカップでレースをしている息子のセバスチャン・アッシュをサポートしている。
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アクシデント
1994年、アレマンネンリンクのDTMで物議を醸す事件に関与。ライバルのアルファロメオのアレッサンドロ・ナニーニは、すでにラップされたアッシュのすぐ前を走っていた。 前の車を抑えている間、ナニーニはヘアピンへの入り口で一時的に後輪をロック。その後彼はコントロールを取り戻しレースラインをコーナーに持ち込んだ。アッシュは意図的にナニーニを脇に押し込み、スピンさせて車にダメージを与えた。ピットに入った後、ナニーニはアッシュの後ろに再び合流し、意図的に同じヘアピンでリベンジしてトラックから彼に突っ込んだ。その結果、アッシュのメルセデスのチームメイトであるクラウス・ルートヴィッヒが優勝した。
1999年限りでシリーズ消滅となるSTWの最終戦・ニュルブルクリンクでの第2レースで、アッシュは再び、同じオペル・ベクトラをドライブするウーヴェ・アルツェンをサポートするために故意に対戦相手をコースアウトさせたとして非難された。 アッシュはジャンプスタートのペナルティでピットに呼び出されたがピットインせず、後にマシンの無線が故障していたと述べた。最後のラップでアッシュはチャンピオン候補であるアルツェンとアプト・スポーツラインのクリスチャン・アプト、アプトのチームメイトであるクリス・ニッセンをラップしようとしていた。ニッセンは最後から2番目のコーナーでアルツェンと絡んで、アルツェンの車に大きなダメージを与えた。アッシュは最後のコーナーでアプトのアウディ・A4に接触してコースアウトさせ、サスペンションを破損してペースダウンを余儀なくされたアルツェンをアシストしたとされた[6]。アルツェンは優勝したホンダ・アコードのトム・クリステンセンに次ぐ2位で完走した。
このアクシデントは当初、レース中の事故と見なされていたが、[要出典]アッシュはペナルティを無視したことで罰せられた。レース後、アルツェンのチャンピオン獲得が濃厚と見られたが、最終コーナーでのアッシュの動きに対するビデオ判定に基づいてDMSBの控訴裁判によって意図的な行動とみなされた後、11月にチャンピオンが、アプトに決定した。[要出典]
アッシュにとって因縁のチームとなったアプト・スポーツラインだが、翌年このチームのシートを得て復活したDTMに参戦した。
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レース戦績
ドイツツーリングカー選手権
ドイツ・スーパーツーリング選手権
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脚注
外部リンク
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