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レオナルド・ダ・ヴィンチ (潜水艦)
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レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、第二次世界大戦でイタリア王立海軍が建造したグリエルモ・マルコーニ級潜水艦。1940年9月から1943年5月まで大西洋で運用され、大きな戦果を収めた[3][4]。
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建造
レオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアの主要な潜水艦製造会社であるトリエステ近郊のカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ造船所で建造された。1938年から39年にかけて建造されたマルコーニ級の6隻の中の1隻であり、レオナルド・ダ・ヴィンチは1939年9月に進水した。外洋艦として設計され、地中海と大西洋の両方で運用することを想定していた。
艦歴
1940年6月、イタリアの第二次世界大戦参戦に伴い、レオナルド・ダ・ヴィンチは占領下にあるフランスのボルドーへ向かった。枢軸国の潜水艦が多数撃沈されているジブラルタル海峡の通過を果たし、1940年10月にボルドーへ入港、イタリア潜水艦群BETASOMに所属した。
レオナルド・ダ・ヴィンチは哨戒活動において、21,500トンのエンプレス・オブ・カナダを含む120,243GRTの17隻を沈めた[5]。レオナルド・ダ・ヴィンチは第二次世界大戦においてイタリアで最も成功した潜水艦であり、艦長のジャンフランコ・ガッツァーナ・プリアロッジャはイタリアを代表する潜水艦のエースであった。1942年7月、レオナルド・ダ・ヴィンチはアメリカ東海岸の港湾を空襲する特殊作戦へ参加する予定となった。そのためCA級特殊潜航艇を搭載可能となるように改装され、秋に試験運用を行った[6]。CA級潜航艇の改修により計画は延期され、レオナルド・ダ・ヴィンチは再び大西洋に戻った。
ニューヨーク港への攻撃計画
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ニューヨーク港への極秘攻撃作戦に参加する予定であった。この作戦は1942年7月にユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼにより計画され、ボルドーのBETASOM基地からハドソン川河口に向けて爆薬を搭載したCA級特殊潜航艇と潜水士を射出し、所定の位置で潜水士がCA級潜航艇を港湾に侵入させる予定であった[7]。爆薬は20kgから100kgであり、港の船を沈めるために設置する計画であった[8]。
1942年8月に行われた初期のテストでは、レオナルド・ダ・ヴィンチが潜航艇を問題なく射出し、回収可能であると結論付けられたが[9]、実際には潜航艇の回収は困難であり、爆薬を設置し終えたら破棄しなければならない可能性の方が高かった[9]。
レオナルド・ダ・ヴィンチの喪失により作戦は延期され、4か月後の休戦協定締結により最終的に中止された[10]。
最後の哨戒任務
1943年3月、レオナルド・ダ・ヴィンチは南大西洋への最後の哨戒任務に就いた。この任務は最も戦果を挙げた哨戒となった。3月14日、レオナルド・ダ・ヴィンチは西アフリカのタコラディに向かう途中でエンプレス・オブ・カナダを撃沈した。乗船していた1,800名のうち392名が死亡した[11]。3月19日には南大西洋で 7,628トンのイギリスの貨物船ラルワース・ヒルを撃沈した。1名の生存者を捕らえ乗船させ[12]、他2人の男性は、救命いかだで50日間彷徨った後生還している[13]。
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沈没
4月に4隻を沈めた後、レオナルド・ダ・ヴィンチは母港へ向かった。1943年5月22日、スペイン沖で艦長はボルドーに向かうという不用意な信号を発した[14]。この信号により潜水艦の位置が探知され、5月23日にイギリスの駆逐艦アクティヴおよびフリゲートネスが激しい爆雷攻撃を行い、ビーゴの西480km、推定座標北緯42度16分0秒 西経15度40分0秒にて撃沈された[15]。生存者はいなかった。
戦果
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脚注
関連項目
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