リチャード・カーペンター
アメリカ合衆国の歌手 (1946-) ウィキペディアから
アメリカ合衆国の歌手 (1946-) ウィキペディアから
リチャード・カーペンター(Richard Carpenter、1946年10月15日 - )は、アメリカ合衆国の作曲家・編曲家・ピアニスト。妹のカレン・カーペンターとカーペンターズを結成していたことで知られる[1]。
アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンで生まれたリチャードは、父親がレコード収集家で、早くから音楽に興味を抱いていた。12歳でダウニーに転居、教会のオルガン奏者のアルバイトや、音楽バンドの奏者を経験。ダウニー高校では、マーチングバンド部に所属、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学し、コーラス隊に入ったことでジョン・ベティス(後に作詞家となる)らと出会う。
ピアノをニューヘイブンにいた頃イェール大学で勉強するなど早くから音楽の才能を開花させていた。16歳の時には年齢を誤魔化してクラブで演奏したこともあったという逸話もある。
カリフォルニア州に移ると、カレンも加わったトリオを結成し、様々な所でバンド演奏を行った。その一方でデモテープを作り自分達のバンドの演奏を売り込んだが、最初はことごとく断られた。しかし、A&Mとついに契約を結ぶことができた。
1969年10月9日にアルバム『オファリング』(原題:Offering)(後に『涙の乗車券』(同:Ticket to Ride)に改題)を発表した。このときの売り上げは散々なものだったが、シングル『遥かなる影』(同:Close to you)を発表すると、瞬く間にスターダムにのし上がり、不動の基礎を築いた。
初期のカーペンターズではリチャードもリードヴォーカルを担当することもあったが、やがてカレンの歌声に対する世間の評価を知ると、演奏に関してはバックコーラスと鍵盤楽器へと活動の中心を移してゆくことになる。作曲・編曲・製作をリチャードが担い、ロン・ゴローが楽譜にし、その曲をカレンのリードヴォーカルで演奏する形態へと移っていった。
リチャードは、ファースト・アルバムの『オファーリング』(後に『涙の乗車券』に改題)とセカンド・アルバムの『遥かなる影』、カレンの死後発表したアルバム『タイム』(同:Time)などでリードボーカルを担当する曲が数曲ある。
また、リチャードのアレンジ能力は高く、カーペンターズの日本語訳詞を行った小倉悠加はCDのライナーノーツで「(カバーした曲を)カーペンターズ風に料理するのが上手い」と評している。グラミー賞の最優秀アレンジメント賞には計6度ノミネートされている。
ウィリッツアピアノとして有名なウィリッツア社のエレクトリックピアノ「Wurlitzer 200A」の代表的なユーザーでレコーディングで多用したり、テレビ出演時に弾いている姿が見受けられる。なお、同機は「ローズ・ピアノ (Rhodes Piano)」と並ぶエレクトリックピアノの名機で、ヴィンテージキーボード市場では現在も高額な値が付けられている。
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