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リカルド・デ・マドラーソ(Ricardo Federico de Madrazo y Garreta、1852年2月7日 – 1917年8月18日)はスペインの画家である。多くの画家をだしたマドラーソ家の一人で、「オリエンタリズム」の画家の一人である。スペインのオリエンタリズムの画家、マリアノ・フォルトゥーニの義弟でフォルトゥーニの強い影響を受けた。
マドリードで生まれた。祖父のホセ・デ・マドラーソは肖像画家で、父親のフェデリコ・デ・マドラーソも肖像画家で、王立サン・フェルナンド美術アカデミーの校長などを務めた人物である。父親の兄弟にも画家や美術評論家、建築家がいた [1]。母方の祖父、タデウシュ・クンツェ(Tadeusz Kuntze)も画家だった。兄のライムンド・デ・マドラーソも画家になった。[2]
父親から絵を学んだ後、王立サン・フェルナンド美術アカデミーで画家のホアキン・エスパルター(Joaquim Espalter)と彫刻家のリカルド・ベルベル(Ricardo Bellver)やポンシアーノ・ポンツァーノ(Ponciano Ponzano)に学んだ[3]。1866年に画家のマリアノ・フォルトゥーニ(1838-1874)と知り合い、翌年姉のセシリア・デ・マドラーソ(Cecilia de Madrazo:1846-1932)がフォルトゥーニと結婚した。リカルドはフォルトゥーニの家族と、トレドで暮らし、その後、フォルトゥーニとローマに移った。兄のライムンド・デ・マドラーソもローマのフォルトゥーニのスタジオで活動したこともある[4]。
1866年にフォルトゥーニがパリに移った時も、同行し、パリでは美術館の作品を模写して修行した。普仏戦争が始まると、パリで活動していたライムンドとスペインに戻り、グラナダで暮らした。1871年にフォルトゥーニとジョセップ・タピロ・バロ(Josep Tapiró Baró)とモロッコへ旅した。1874年にフォルトゥーニはイタリアで急死するが、フォルトゥーニの没後にもモロッコへ旅した[1]。フォルトゥーニの没後、フォルトゥーニのスタジオを整理した[5]。その後は、パリとマドリード、モロッコのタンジェを行き来して作品を描いた。
1884年に結婚し、1885年からマドリードに住み、肖像画家として働くようになり、スペイン王妃、マリア・クリスティーナやアメリカの富豪ハンティントン(Archer Milton Huntington)、フランスの画商ポール・デュラン=リュエルやアメリカ大統領となった、ウィリアム・タフトらの肖像画も描いた[3]。
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