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ロシアの町 ウィキペディアから
ポレッスク(ロシア語: Поле́сск、ラテン文字表記の例: Polessk)は、ロシア西部飛び地のカリーニングラード州中部にある町。人口は6,926人(2021年)[1]。
1945年以前はドイツ領東プロイセンに属し、ドイツ語でラビアウ(Labiau, リトアニア語: Labguva, ポーランド語: Labiawa)といい、ドイツ騎士団の城が建っていた。
ポレッスクはポレッスク地区の中心で、北にはクルシュー潟(クロニア・ラグーン)が広がり、デイマ川(プレゴリャ川からグヴァルジェイスクで分かれクルシュー潟に注ぐ分流)が注いでいる。州都カリーニングラードの北東46kmの位置にあり、カリーニングラードからソヴィェツク(ドイツ語:ティルジット)へ向かう道や鉄道がデイマ川を渡る地点にある。デイマ川の河口から東のクルシュー潟南岸一帯には、大湿地帯が広がり野生生物の楽園となっており、かつてプロイセン王国が開拓のために作らせた排水用運河が残る。
ドイツ騎士団が1258年に城を築いて以降の町の名の変遷は、以下のとおりである。
プロシア語で「labs」は「良い」を、「moter」は湿地を意味していた。またリトアニア語名の「labguvyna」は「癒す石」となる。
ドイツ騎士団は古プロシア人が住んでいたサンビア半島(ザムラント)を征服し、1258年から1259年にかけてラビアウ城を築いた。この城は、クルシュー潟を越えて攻めてくる敵からケーニヒスベルクを守る意味合いもあった。1277年に城が炎上すると、石造で再建され、リトアニアに対する防衛と攻撃の拠点となった。濠に囲まれた城は難攻不落で、1550年からはプロイセン公アルブレヒトの再婚した妻アンナ・マリアがラビアウ城に住んだ。1642年には「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムがラビアウの町に都市権を与えた。
19世紀末にはラビアウはこの地方の行政中心地で、蒸気動力の醸造所や製材所や、魚市場やその他の市場が立っており、住民のほとんどはプロテスタントだった。
1945年、独ソ戦末期にラビアウは赤軍に占領された。東プロイセン北部はソ連領となり、ドイツ人住民は追放され、1946年には地名も「ポレッスク」に改められた。
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