ヨ・ウンゲ

韓国の女優 ウィキペディアから

ヨ・ウンゲ漢字: 呂運計、ハングル: 여운계ラテン翻字: Yeo Woon-kay、1940年2月25日 - 2009年5月22日)は、大韓民国京畿道水原市出身の女優。政治学者で京畿大学校名誉教授のチャ・サンフンは夫。

概要 여운계 ヨ・ウンゲ, 生年月日 ...
여운계
ヨ・ウンゲ
生年月日 (1940-02-25) 1940年2月25日
没年月日 (2009-05-22) 2009年5月22日(69歳没)
出生地 日本統治下朝鮮
(現: 大韓民国京畿道水原市
死没地 仁川広域市
国籍  大韓民国
身長 163cm
職業 女優、タレント
ジャンル 舞台劇テレビドラマ
活動期間 1962-2009
配偶者 チャ・サンフン[1][2](1963-2009)
所属劇団 実験劇場
主な作品
宮廷女官チャングムの誓い
受賞
第10回韓国演劇映画テレビ芸術大賞テレビ番組部門演技賞(1974年)
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概要 ヨ・ウンゲ, 各種表記 ...
ヨ・ウンゲ
各種表記
ハングル 여운계
漢字 呂運計
発音: ヨ・ウンゲ
ローマ字 Yeo Woon-kay
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舞台俳優となると同時に国営ソウルテレビ(現:KBS)公開採用タレント2期生に採用されて芸能界にデビュー、1964年にはTBCタレント1期生に特別採用され、韓国初の連続ドラマ『雪が降るのに』に出演した[1][2]。以後、40年以上に渡り舞台・テレビドラマ・映画に出演してきた。

生涯

要約
視点

日本統治時代の1940年に京畿道水原にて誕生。ソウル特別市所在の舞鶴女子高等学校朝鮮語版在学中は放送部および合唱部に所属していた。高校卒業後は高麗大学校国文学科に入学。大学内の劇団に所属、『聖火』(성화/聖火)で舞台デビューした。大学演劇時代は、中央大学校在学中同じく大学演劇で活動していたパク・クニョン朝鮮語版と合わせて「大学劇のふたり」(대학극 2인)として名をはせた[3]。また黎明期のテレビドラマ業界でも共に仕事をすることになるイ・スンジェイ・ナックン朝鮮語版オ・ヒョンギョン朝鮮語版らと共に「大学劇第1世代」(대학극 1세대)とも称された[3]

家族は当初演劇活動に反対していた。このためヨ・ウンゲは「教職課程を履修して学業に戻ったが、席の空きがなく演劇をするしかなかった」と後にインタビューで振り返っている[3]

大学卒業後の1962年実験劇団(실험극단)に入団してプロの演技者としての道を歩みだした。同年公開採用タレントに採用されて国営ソウルテレビに入社、2年後の1964年にはTBCに特別採用され、韓国テレビ史上初の連続ドラマ『雪がふるのに』(눈이나리는데)に田舎の喫茶店のマダム役で出演した。これがテレビドラマへの初主演作となった[1]。1966年には李御寧の小説を戯曲化した『無翼鳥』の居酒屋の女将役、およびアーサー・ミラーみんな我が子英語版』の次男の婚約者アン・ディーヴァー役で東亜演劇賞朝鮮語版演技賞を受賞した[4]。 1968年にはチェ・ムリョン朝鮮語版が監督・主演した情を置いていくな朝鮮語版情 두고 가지마)で映画デビュー。この作品には彼女を含むTBC所属タレントが多く参加していたが、当時の映画界のスターであったチェ・ムリョンやキム・ジミ朝鮮語版と並んで主演女優のひとりに抜擢された[1]

1974年、『母』(어머니)で第10回韓国演劇映画テレビ芸術大賞テレビ番組部門演技賞(女優)を受賞[5]。1996年にはSBS演技大賞特別賞、2000年にはKBS演技大賞功労賞を受賞した[1]

2007年9月、KBS『ヨメ全盛時代朝鮮語版』出演中に腎臓癌にかかっていることが分かり、手術を受けるために一時的に降板し11月から現場に復帰した[6]。同時期に出演していたSBS『王と私』については、そのまま降板することとなった[3]。その後癌細胞が肺に転移し肺癌との闘病も行わなければならなくなったが、俳優としての活動を続けた。夫チャ・サンフンは後にインタビューにて、「妻は中毒という程演技活動をしていた。かつて自分は妻を拉致するように済州島にある別荘へ連れて行き療養させた」と告白している[1]

2009年には遺作となったKBS『チャンファ、ホンリョン朝鮮語版』にチャンファの姑ピョン女史役で出演。ヨ・ウンゲは本作品への出演を、事前に夫に打ち明けていたという[1]。しかし収録中に病状が悪化し、4月29日に降板、同役はチョン・ヤンジャ朝鮮語版が引き継ぐこととなった[7]

5月22日午後8時過ぎ、仁川広域市内の病院にて死去[3]。死去から2年後の2011年、第38回韓国放送大賞朝鮮語版功労賞を受賞した[8]

私生活

1963年に結婚した[9]夫チャ・サンフンとの間に1男1女がある。長女が5歳、長男が生後11か月の時、チャ・サンフンは留学のためフランスへ渡り、6年後に博士号を取得して帰国した。その間ヨ・ウンゲは韓国国内にとどまり、単身仕事と育児をこなしてきた[10][11]。長女は歯科医師として働く傍らNGO法人での活動をしている。2011年1月、長女は法人の活動仲間と共にKBS『クイズショー四銃士朝鮮語版』に出演し優勝を果たした[12]

作品

要約
視点

演劇

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タイトル 原題 役名 備考
2005 ロバの影の所有権に関する裁判[13] 당나귀 그림자 소유권에 관한 재판 高麗大学校開学100周年記念公演
クリストフ・マルティン・ヴィーラントアブデラの人びと』第4章が原作[14]
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映画

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タイトル 原題 役名 備考
1968 情を置いていくな 정 두고 가지마/情 두고 가지마 デビュー作
将軍のひげ 장군의 수염/將軍의 수염 下宿の娘
2階建ての家の新妻 2층집 새댁/2層집 새댁
1969 女に生まれてから 여자로 태여나서/女子로 태여나서
綽名を持つ女 별명 붙은 여자
1970 八道の嫁 팔도 며느리
変わった女 별난 여자
1971 慰謝料 위자료/慰藉料
狼と猫たち 늑대와 고양이들
1972 植木鉢 화분 オンニョ
목소리
房子と香丹 방자와 향단이
1979 走れマンソク 달려라 만석아
純悪質女史 순악질 여사/순악질 女史
午年の嫁 말띠 며느리
ピーナッツの殻の中の恋歌 땅콩 껍질 속의 연가/땅콩 껍질 속의 歌
1980 海へ行く木馬 바다로 간 목마
1981 晩秋 만추
1982 ごま塩とオクトルメ 깨소금과 옥떨메
1983 十九歳の秋 열아홉살의 가을
1984 きいちご2 산딸기 2
1985 唐辛子畑にキャベツ 고추밭에 양배추
1986 旅路 여로/旅路
1987 あなたと私の秘密の日記 너와 나의 비밀일기
1988 彼女との最後のダンスを 그녀와의 마지막 춤을
1990 ひとりで廻る風車 혼자도는 바람개비
1992 いつも終電に乗ってくる人 언제나 막차를 타고 오는 사람
ソムガンから天まで 섬강에서 하늘까지 ジェインの母
1993 ヘガ トゥミョン タルト トゥゴ 해가 뜨면 달도 뜨고
2005 麻婆島 마파도 フェジャン宅
2007 あの空にも悲しみが 저 하늘에도 슬픔이 医師
夢はかなう 꿈은 이루어 ハルマン(おばあさん)
麻婆島2 마파도 2 フェジャン宅
2009 危険な思春期 위험한 사춘기 遺作
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テレビドラマ

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その他の活動

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企業名
2000 高麗大学校国文学科校友交流会会長
2001 法務部犯罪予防委員会芸能人委員
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脚注

外部リンク

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