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メル・オット
アメリカ合衆国の野球選手 (1909-1958) ウィキペディアから
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メルビン・トーマス・オット(Melvin Thomas Ott, 1909年3月2日 - 1958年11月21日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州グレツナ出身のプロ野球選手(右翼手)。右投げ左打ち。
ニックネームは、"Master Melvin"(マスター・メルビン)。17歳でニューヨークジャイアンツでメジャーデビューし、6度の本塁打王になるなど通算511本塁打を放った[1]。また名門ジャイアンツ一筋22年、一本足打法で左打者のホームランバッターである事、通算試合数や安打数など含めて多くの点で日本の王貞治と類似を指摘されている[2]。
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現役時代
1902年、ニューオーリンズ郊外のルイジアナ州グレトナで生まれる。父チャールズは野球のセミプロ選手で、メルビンは野球を見て育った。学生時代は主にキャッチャーとしてプレーしていた。
16歳の時にサザン・アソシエーションのニューオーリンズ・ペリカンズの入団テストを受けたが、体が小さいことを理由に不合格。その後、ルイジアナ州パターソンのセミプロチームに月給150ドルで入団[3]。その後、球団オーナーのハリー・ウィリアムズが、友人のジョン・マグロー(当時ニューヨーク・ジャイアンツ監督)へ「すごいタマを見つけた」という電報を打った[3]。
マグローの返事は、「そのタマをすぐにポロ・グラウンズへ送られたし」だった[3]。捕手としてテストを受けたオットだったが、マグロ―監督は捕手として危ういキャッチング能力に疑問を持ったが、打撃に関しては非凡なものを見せ、1926年1月にニューヨーク・ジャイアンツと17歳で契約し入団。すぐに外野手に転向して異例の若さでデビューした彼は、「ボーイ・ワンダー」としてファンの目を引く存在になる。5フィート9インチ(約175cm)、170ポンド(約77kg)と、さほど恵まれていない体格だったが、3年目の1928年には、18本塁打、打率.322をあげ、長距離打者としての真価を発揮し始める。

オットはその後、日本で言う「一本足打法」(投球前から足を上げて構えるスタイル)で本塁打を量産、1929年に自己最高の42本塁打を打ったのを皮切りに、1932年には初の本塁打王を獲得し、以降1936年 - 1938年の3年連続を含む、6回の本塁打王に輝いた。また選球眼もよく、本塁打を量産する傍ら三振の数が少なく、リーグ最高出塁率を記録したことが4度、四球数がリーグ最多となったのが6度ある。1936年以降は、シーズン100四球以上を7年連続で記録していた。
ワールドシリーズには3度出場。特に1933年のシリーズは2本の本塁打を打つなど1戦目から打撃が冴えわたりチームの世界一に貢献した。
1945年、ナショナルリーグの打者としては初めて500本塁打を達成し、1947年に現役を引退。
1942年からはジャイアンツの監督を兼任していたが、お人よしと言われたその采配ではチームは浮上せず、監督専任になった1948年途中で解任され、レオ・ドローチャーに交代させられた[4]。
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引退後

ニューヨーク・ジャイアンツの永久欠番に1949年指定。
ジャイアンツの監督を退任したその翌1949年に、オットの背番号『4』が、ジャイアンツの永久欠番に指定されている。
1951年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。その後は、1955年から1958年まで、主にデトロイト・タイガースの試合中継のアナウンサー・解説者として活動していた。1958年、ルイジアナ州ニューオーリンズにて交通事故死。49歳。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
獲得タイトル
表彰
- 背番号4がニューヨーク・ジャイアンツの永久欠番に指定(1949年)
- アメリカ野球殿堂入り(1951年)
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
記録
- 最多得点:2回 (1938年、1942年)
- 最高出塁率:4回 (1930年、1932年、1938年、1939年)
- ワールドシリーズ出場:3回 (1933年、1936年、1937年)
- オールスターゲーム出場:12回、12年連続 (1934年 - 1945年)
- ダブルヘッダーで、2試合で6四球という、ナショナルリーグ記録を持っている。(1929年10月5日、1944年4月30日)
- 史上最年少で500打点到達(24歳74日)
- 史上3人目の500本塁打達成
- サンフランシスコ・ジャイアンツ球団記録
- 球団歴代1位
- 通算打点 1860
- 通算出塁 4648
- シーズン打点 151:1929年
- 実働22年
- 球団歴代2位
- 通算出塁率 .414
- 通算試合 2730
- 通算打席 11348
- 通算打数 9456
- 通算得点 1859
- 通算安打 2876
- 通算塁打 5041
- 通算単打 1805
- 通算二塁打 488
- 通算四球 1708
- 通算長打 1071
- 球団歴代3位
- 通算OPS .947
- 通算本塁打 511
- シーズン得点 138:1929年
- 球団歴代1位
監督としての戦績
- 所属:ニューヨーク・ジャイアンツ (1942年 - 1948年)
- 戦績:1004試合、464勝530敗、勝率.467、リーグ最高順位:3位 (1942年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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