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マーサ・B・エカード(Martha Bushong Akard, 1887年4月17日 - 1969年5月30日)は、米国のルーテル教会の宣教師。1914年、26歳の時に日本伝道に派遣された。1924年、熊本の九州女学院のちの九州女学院短期大学(現ルーテル学院中学校・高等学校及び九州ルーテル学院大学)の院長に選任される。ウィッテンバーグ大学大学院で教育学を学んで就任したのは1926年。1940年、戦時体制で一時帰国したが、戦後に再来日した。九州女学院名誉院長(1947年 - 1955年)。
[1] 1887年4月17日にテネシー州、サリバン郡、ミルポイント(Mill Point)、現在のブラウントヴィルの近くで生まれた。父アベル、母アイダの間には9人の子供が生まれたが4人の男児は夭逝、生き残った5人の女児のうち、マーサは次女であった。家族はルーテル教会の熱心な信者である。1900年と1901年に相次いで母、父を失う。当時やむをえず家庭教師についた。1901年サリンズカレッジの予科、翌年本科に入学、更に翌年ヴァージニア州スミス郡にあるマリオン・カレッジに入学。1905年6月に卒業。マリオン・カレッジ付属高校で教鞭をとる。1909年9月からワシントンD.C.にあるルーシー・ヘイズ・ナショナル幼稚園師範学校に入学。1911年6月、卒業後、日本に伝道にいく希望をのべたが、未婚の女子は派遣できないという返事であった。1911年9月メリーランド州バルティモアにあるルーテル教会ディアコネス・マザーハウス訓練学校の聖書研究科(2年制)に入学した。1913年6月卒業、任地もきまっていたが、婦人伝道局から宣教師として日本派遣が決定された。
[2] 北米一致ルーテル教会より初めての独身女性宣教師として日本伝道に派遣されることになり、1914年1月サンフランシスコ出発、横浜に着いた。日本語学校で2年過程を1年半で終了、1915年、佐賀幼稚園に1年勤務している。1916年福岡のルーテル教会運営の南博(なんぱく)幼稚園に勤務。1921年4月久留米にある日善幼稚園長を兼任する。1922年にキリスト教主義幼稚園の日本幼稚園連盟(Japan Kindergarten Union)九州支部長 次いで全国の日本幼稚園連盟長に選ばれている。エカードは日本の女性達と茶話会、料理講習会をおこない、また夜間の英語学校などを行い、宣教活動に大いに成果があった。博多に来た当時は日本家屋に住んだが、後に西洋式の女性宣教師館ができた。
[3] 1922年、熊本の九州学院でルーテル教会第3回総会がおこなわれ、女学校の設立が決議された。その前年1921年、北米一致ルーテル教会婦人伝道部総会では日本に於ける女子学校の設立が決議されていた。1922年、175,000ドルの募金活動が行われた。菊池軌道沿線の室園(むろぞの)に建築費総予算31万円は現在(2006年)の値段であると15億5000万である。1924年6月エカートが院長に選任されると、彼女は9月にオハイオ州スプリングフィールドのウィッテンバーグ大学の大学院(教育学)に入学、1925年6月に卒業、修士号を修得。1926年3月、九州女学院院長であることを知事が認可した。
[4]九州日日新聞2月18日の記事「壮大な建物に素晴らしい設備の新校舎、4月から開校する九州女学院」によると、
(前略)エカード女史は米国テネシー州出身、オハイオのウィッテンベルグ大学を出た人で、10数年間日本にいて教育事業に従事し、日本語を話すこと邦人に異ならず、人格識見共に高い人である。(中略)この学校では4月の新学期に1年生約70名を募集し、それを3組に分けて教授する。(中略)普通教室11の外、歴史科学、生物、裁縫、作法など特別教室10、音楽部教室16の中、各室にピアノを備えた個人教室が12もある。600人を入れる講堂、(中略)体育館、尞舎は最新式で、健全な精神と健康を有する女学生が教養され(ママ)九州の教育界に異彩を放つにいたるであろう。
九州女学院は5年制の各種学校並の資格でスタートしたので、上級学校への進学ができなかった。1928年に申請し、文部省より専門学校入学試験検定を有する「指定校」扱いとなり、1931年には文部省より5年制の女学校と同じ扱いとなった。当初は入学志願者数が年々減少した。英語の発音も発音記号を取り入れたりして、エカードの教育にかんする考え方が厳しすぎたからである。エカードは悩んだ末、方針を変更した。入試が簡単で入学しやすくし、宗教色を和らげ、良妻賢母教育の授業を行っていることを訴えた。その結果、十数年したら入学志願者が増加した。[5][6]
[11] ハンセン病患者の母とも讃えられるハンナ・リデルが設立したハンセン病病院回春病院は、九州女学院から徒歩10分の所にあり、エカードはリデルとその後継者エダ・ハンナ・ライトとの交流があった。熊本に住んでいた英国聖公会の牧師メイ・フリースは両者とも交流があり、エカードの学校の献堂式にリデルが招かれている。イギリスやアメリカで設立されたMTL(Mission to Lepers)救らい協会は、1925年日本にも設立され、1934年熊本でも設立された。11月の発会式があり、エカードは理事になった。1949年の同会の記念写真にエカードの外にライト、杉村春三、福田令寿、宮崎松記、内田守、江藤安純、潮谷総一郎、石松量蔵(同会理事長)らの写真がある。[12]
[13] 福祉施設「慈愛園」は、エカードの後輩のミス、モード、パウラスらが設立した。献堂式は1923年4月に行われ、これには(娼妓救済ホーム)、(孤児養育ホーム)、(老人ホーム)があった。日本人としては福田令寿、遠山参良らが援助し潮谷総一郎が勤務した。そこでは牛を飼い、子供たちに一日1リットルのミルクを飲ませ、中流以上の生活をさせたという。娼妓救済は戦前に中止されたが、戦後も駆け込んでくる婦人がいた。エカードは慈愛園を自己犠牲のあかしと考え、慈愛園を援助した。
[14] アメリカでは1776年イギリス植民地13州の独立宣言から34年後の1810年に最初の外国伝道団体として超教派的なアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions) が創立され、その後各教派に外国伝道局がもうけられ、世界各地に宣教師を派遣していった。独身女性宣教師は、婦人伝道局から任命を受けて来日するのである。
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