Loading AI tools
ウィキペディアから
ホバート・ボズワース(Hobart Bosworth, 1867年8月11日 - 1943年12月30日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである[1]。本名ホバート・ヴァン・ザント・ボズワース(Hobart Van Zandt Bosworth)、愛称ヴァイオレッツ(Violets)[1]。日本ではホバート・ボスウォースとも紹介された[2]。
1867年(慶応年間)8月11日、オハイオ州マリエッタに生まれる[1]。
舞台から映画に転向、映画へのもっとも古い出演記録は、満41歳となる1908年(明治41年)、フランシス・ボッグズ、トーマス・パーソンズの共同監督によるアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』の短篇映画化 The Count of Monte Cristo で、主人公のエドモン・ダンテスを演じている[1][3]。以降、セリグ・ポリスコープ・カンパニーの量産する短篇映画に多く主演する[1]。1911年(明治44年)には、自らの主演作 Stability vs. Nobility で監督業に進出する[1]。
1913年(大正2年)、ホバート・ボズワース・プロダクションズを設立し、The Sea Wolf の製作・監督を行なう[1][4]。同社の製作した作品は、ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(フェイマス・プレイヤー=ラスキー)やパラマウント映画が配給した[4]。1915年(大正4年)に監督した主演作 Fatherhoodでは、美術等も手がけるが、同作はユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)での製作・配給作品で、同作以降、同社に所属する[1]。次作 The White Scar を最後に監督業から撤退、再び俳優業に専念する[1]。翌1916年(大正5年)、ユニヴァーサルが傘下に設立したブルーバード映画では、ロイド・B・カールトン監督の『恨の短剣』に主演[1]、同作は日本でも公開された[5]。同年、『浮世』に主演したのを最後に、ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーに移籍する[1]。
トーキー化した1930年(昭和5年)以降も主演や脇役を含め映画出演をつづけ、その多くは日本でも公開されている[1][2]。満75歳となる1942年(昭和17年)、レイ・エンライト監督の Sin Town が最後の出演作となる[1]。
1943年(昭和18年)12月30日、カリフォルニア州グレンデールで肺炎のために死去した[1]。満76歳没。同市にあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る[6]。映画産業への貢献によりハリウッド大通り6522番地にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を刻む[1]。
特筆以外はすべて出演作である[1]。1915年以前の出演作は主なものに留めた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.