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ジョン・フランシス・ディロン(John Francis Dillon, 1884年7月13日 - 1934年4月4日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、映画プロデューサー、脚本家である[1]。J・フランシス・ディロン(J. Francis Dillon)、J・F・ディロン(J. F. Dillon)、ジャック・ディロン(Jack Dillon)、ジョン・ディロン(John Dillon)等ともクレジットされた[1]。
John Francis Dillon ジョン・フランシス・ディロン | |
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1926年撮影 | |
別名義 |
J・フランシス・ディロン J. Francis Dillon J・F・ディロン J. F. Dillon ジャック・ディロン Jack Dillon ジョン・ディロン John Dillon |
生年月日 | 1884年7月13日 |
没年月日 | 1934年4月4日(49歳没) |
出生地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市 |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ |
職業 | 映画監督、俳優、映画プロデューサー、脚本家 |
ジャンル | サイレント映画、トーキー |
活動期間 | 1913年 - 1934年 |
配偶者 | エディス・ホーラー |
著名な家族 | ロバート・A・ディロン 弟 |
1884年7月13日、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市で生まれる[1]。5歳下の弟は後に長じて脚本家ロバート・A・ディロンとなる[1]。
1913年(大正2年)、キーストン・フィルム・カンパニー(キーストン・スタジオ)に入社、短篇映画に出演を始める[1]。1914年(大正3年)、カーライル・ブラックウェル主演の短篇映画 The Key to Yesterday を自らも出演しながら監督して、映画監督としてもデビューする[1]が、同社では引き続き俳優業をつづけ、アル・クリスティ監督の短篇に多く出演する[1]。1915年(大正4年)、アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに移籍して監督業に重心を置く[1]。チャールズ・チャップリン作品の常連俳優ベン・ターピンの主演する短篇コメディを量産する[1]。のちにトライアングル・フィルム・コーポレーションに移籍、リリアン・バイロンらを相手に自らの主演する短篇映画を量産する[1]。
1918年(大正7年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍[1]、同社の子会社・ブルーバード映画でエディス・ロバーツを主演に『偽紫』、『密書を抱いて』、プリシラ・ディーンを主演に『第二の結婚』を監督、翌1919年(大正8年)にはブルーバード映画最終作とされる『赤い酒』をエディス・ロバーツを主演に監督[1]、いずれも日本でも公開されている[2]。
1921年(大正10年)5月14日、12歳年少の女優エディス・ホーラーと満36歳で結婚する[1]。
俳優業はサイレント映画時代の終了をもってほぼ廃業するが、トーキー以降も監督として、『キスメット』(1930年)や『ミリー』(1931年)等の作品を手がけ[1]、1934年(昭和9年)1月6日に米国内で公開された『めりけん商売』を監督したのを最後に、同年4月4日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズで心筋梗塞により死去した[1]。満49歳没。ロサンゼルス市ハリウッドにあるハリウッド・フォーエヴァー墓地に眠る[3]。
特筆のないものは監督のみである[1]。
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