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ホイットニー家(Whitney Family)は、アメリカ合衆国において事業運営や投資、篤志活動、および競馬産業などを展開してきた名士の一族のひとつ。イギリスのロンドン出身で、マサチューセッツ州ウォータータウンに移り住んだジョン・ホイットニー(John Whitney、1592年 - 1673年)を祖とする。
一族の出身者には発明家のイーライ・ホイットニーなどがいるが、特に著名なものはアメリカ合衆国海軍長官を務めたウィリアム・コリンズ・ホイットニー(William Collins Whitney、1841年 - 1904年)を祖とするニューヨーク州を拠点とした一族であり、一族の実質的な創始者をウィリアム、またはその父ジェームズ・スカリー・ホイットニー(James Scollay Whitney、1811年 - 1878年)とする見方もある。
以下、ウィリアム以降のホイットニー家について解説する。
マサチューセッツ州コンウェイ出身のウィリアムは、大学卒業後にニューヨーク市で弁護士として活動し始めた。その後事業者・政治家としても成功して巨額の資産を築き上げ、以後のホイットニー家の事業や投資への原動力となった。
ウィリアムの没後、長男であるハリー・ペイン・ホイットニーはヴァンダービルト家出身の芸術家ガートルード・ヴァンダービルトと結婚し、同家との関係を強化した。ガートルードは芸術家の保護に努め、またホイットニー美術館の創設にも携わるなど美術関連の篤志活動が多く、その息子であるコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーもその路線を引き継いだ。
また、ホイットニー家の面々はスポーツにも興味を示した。ウィリアムはポロの愛好家であり、息子のハリー、その子コーネリアスなどもポロ愛好家の一人であった。また、ペイン・ホイットニーの娘であるジョーン・ホイットニー・ペイスンはニューヨーク・メッツの創設に携わり、その初代オーナーとなっている。
ウィリアムは後年競馬に興味を示し、競走馬の所有のみならず生産牧場をも開設した。これ以後、ホイットニー家はアメリカ合衆国の競馬と1世紀以上に亘って深く関係していった。
ウィリアムはアメリカ・イギリスの2カ国で競走馬を所有し、そのうちイギリスでダービーステークスに勝っている。ウィリアムの死後、その競馬関連の資産は子孫に受け継がれ、ホイットニー家はアメリカの競馬史における重要な馬主、および生産者として名を馳せた。その貢献に対する評価は高く、1928年にはホイットニー家を記念したホイットニーステークスがサラトガ競馬場に創設されている。
1950年、ウィリアムの孫に当たるコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーはニューヨークのサラトガ・スプリングズにアメリカ競馬名誉の殿堂博物館を創設し、その初代館長として就任した。以後同博物館はアメリカの競馬における殿堂として機能し、功績のあった競走馬や騎手、調教師らを表彰する殿堂選考を行うようになった。ホイットニー家の生産馬・所有馬も数多く殿堂入りしており、代表的な馬にリグレットやエクイポイズ、トゥエンティグランドなどがいる。
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